つまびくアバンドーネ
 薬室から戻ると木々が寝ていた。  久方ぶりの休日である。  出かけるほどの用もなく、まったく読み進まないという本のページを捲る木々を隣に、ミツヒデも長らく友人から借りたままの本を消化していた。  そのさなか、ドアの向こうから慌てた声がミツヒデを呼び、どうやらオビが怪我をしたという。  ミツヒデと木々は一度視線を交わしてから、結局ミツヒデだけが立ち上がった。休日と公言されている日にミツヒデの私室から当然のように木々が現れてはたちどころに噂になるだろうし、何よりオビの怪我である。ドアを叩いた兵が訓練場からそのまま駆けてきたあたり稽古中に調子に乗って負傷したのだろう。良くも悪くもオビという男は怪我慣れしているし、兵たちとの稽古くらいなら大層な怪我ではあるまい。  薬室を覗いてみると案の定オビはぴんぴんしていた。  バランスを崩して転んだ結果盛大に頭を打ち付けたらしい。すごい音しましたよと本人はへらへらしている。 「どうせなら木々嬢に心配してほしかったですけど」 「その前に余計な心配をかけるな」 「あれ、怒ってます? お取り込み中でした?」  こんな昼日中から取り込んでいてたまるか。という内なる突っ込みにすでに下心があってミツヒデは敢えて何も言わなかった。何であれ兵がすっ飛んでくるほどの転倒をかまして瘤ひとつで済んだのだから恐れ入る。  そうして部屋に戻ってみると上記の通り木々は寝ていた。 「……木々?」  彼女の膝にはページが開かれたままの本が鎮座している。呼び掛けにも応じぬほど寝入っている木々にやれやれと息をついて、ミツヒデは慎重に本に手を伸ばした。栞を挟み直して傍らに置く。読書のさなかにうたたねをしてページを見失う苦さはよく知っている。 「おーい、木々」  控えめな声に、果たして自分は起きてほしいのか起きてほしくないのかどちらなのだろう、とミツヒデは苦笑した。だって彼女のうたたねなんてそうそう拝めるものではない。腰を屈めて彼女の寝顔を覗き込み、情けないほどに頬が緩んだところで考えるまでもなく後者だったことを自覚する。  耳にかけられていた髪がはらとこぼれる。薄い唇はうっすらと開かれ、普段ゼンの傍らで雑魚寝を余儀なくされる時には引き結ばれていることを知っている分、ミツヒデにとっては危ういほどの無防備を醸していた。 「木々」  呼ばう真意は何か。ミツヒデは頬に落ちた髪を耳にかけてやる。  貴重な瞬間にもっと浸っていたい。滅多に見せぬ彼女の寝顔をもっと独占していたい。起きてくれるなと浅ましく願い、呼びかけた声は思った以上に熱を孕んでいた。  ソファの背もたれに手をつき、やわらかい頬に触れる。木々はまだ起きない。距離を詰め、それでもなお目を覚まさぬ彼女に少し焦れる。そうして生まれるのは先と真逆の願望であった。気づいてほしい。こんな些細な瞬間にすら自分がどれほど彼女に焦がれるか。そうしてこの瞬間に目を覚ました彼女は一体どんな表情で自分の名を呼ぶのだろう。  無意識である。唇が触れるほどに距離を詰めていた。  彼女の寝顔に囚われた思考のもと、ミツヒデは明らかに木々の熱を求めていた。悪戯心だなんて生易しい衝動ではない。もっと深いところから沸き出る欲望だ。  きし、と手元でソファが軋む。  その音にはっとした。 (な、にを)  慌てて身を離す。  自分でも珍しいことだった。持て余すほどの激情や欲望に頭を抱え、葛藤の末に彼女に手を伸ばしたことは何度かあるが、無意識となると覚えがない。というかこれはもはや最低の部類に入るのではないか。無意識に寝込みを襲うなど。  もはや木々を起こす起こさないの次元ではない。  一人罪悪感と葛藤するミツヒデは、結果、その腕を取られるまで気が付かなった。  木々は起きていた。 「えっ」  ぐいと引かれる。咄嗟にソファに手をつき、結局先と同じ体勢に戻った。寝ぼけているのか。いや彼女に限ってそんなことはと木々の顔を見ると、案の定、うたたねの残滓など一欠片も残らぬ瞳とかち合った。それどころか彼女は悠然と笑んでいる。 「木」 「意気地なし」  いつから起きていたのだ。  ミツヒデが言葉を考える隙も与えず、木々がやわらかく唇を塞いだ。概ねの物事において器用な木々であるが、よもや狸寝入りまで上手くこなすとは。してやられてばかりのミツヒデはさすがに面白くない。 「……謀ったな」 「寝てたのは本当。寝込み襲われたらさすがに起きる」 「いや、それは俺も悪いが、そうじゃなくて何で寝たふり……」 「別に」  どうするかと思って、と木々は笑っている。 「まさかここまで余裕ないとは思わなかったけど」  基本的に感情の表出が平坦な木々が、ミツヒデの見る限り、どうやら上機嫌らしい。  余裕なんてあるか。ミツヒデは胸の内で毒づく。 「いいよな、木々は、余裕で……」 「まあ、あんたよりは」 「人の気なんて知らないもんなあ」 「あんたもね」  おもむろに木々の手がミツヒデの頬に触れた。こういうところだ。深意もなく触れてきたりして、その所作ひとつひとつにどれほど揺さぶられることか。  けれどミツヒデは一通りの文句を飲み込んだ。触れた手が熱い。つられてこちらの熱まで上がる、と危惧したが自身の体温などとうに熱いのだ。 「……寝込みを襲ったことか」 「逆」  ざっくり切り返されたがざっくりすぎてわからない。  意味を掴みあぐね、逆とは、と互いの熱にあてられきわどい緊張感が漂う空間に一瞬腑抜けだ間ができた。ほんとうに一瞬であった。  木々がわらう気配がした。わらってミツヒデの理性に手を添えた。 「ここまできて手出されないのは癪にさわる」  ふつりと。彼女が小さな音を立てて理性を断ち切る。  ありもしないその音がミツヒデにはたしかに聞こえた。  気づくとミツヒデは木々に覆いかぶさっていた。余裕など無いまま唇を塞いでソファにもつれ込み、くちびるを擦り合わせて舌をねぶり、合間に漏れる吐息さえ扇情的でミツヒデは成すすべなく彼女の熱にとらわれる。布地にこすれてほつれる髪にすら欲情した。  浮かされた頭の隅でオビとの会話を思い返す。目下まさに取り込んでいるさなか、彼の揶揄に文句を口にしなかったのは賢明だった、とミツヒデは密かに息を吐いた。
(2017/06/25)

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