食われぬ当て馬
窓辺に見慣れた背中を見つけた。
木を伝って近場の枝にしがみつき、窓を叩こうとしたところで先にその背中の主が振り返る。こちらを視認するなり呆れ顔を見せる主人に、オビはひらひらと手を振った。
「何してるんだおまえ……」
「さーすが主、よく気付きましたね」
ゼンが開けた窓から遠慮なく室内に降り立ち、そこで初めて現在地が書庫であることを知る。忙しそうだな、と皮肉を飛ばされたので廊下使う暇もなくて、とオビも皮肉で返した。視線を巡らせるとゼンの腰掛ける窓のすぐ下、ソファの上にどっさり文献が積まれていて、うわ大変そう、とオビは窓を閉める主人を見やる。
「息詰まりそうですねえ」
「まあな。ていうかおまえ、白雪は?」
「なんか、リュウ坊と難しそうな調合始めてて、邪魔になりそうだったんで抜けてきました」
「ほー。一応聞くが白雪には言ってあるんだろうな」
ははは、とオビは軽やかに笑う。すっかり忘れていた。
「まあほら心配かけないくらいには戻りますって」
「それまで俺らの邪魔して暇を潰すわけか」
「人聞き悪いですよ、手伝いますって。ねえ木々嬢!」
「うるさい」
書物を回収する木々は目も合わさない。いつものことだ。
彼女はゼンの足元の書物を手際よく積み重ねると、分厚いそれらを一息に抱え上げた。さすがに手伝うかと動きかけたオビの脇から、こちらも大量の書物を抱えたミツヒデが現れる。
「オビ、ちょっとどいてくれ」
「おっと、すいません」
木々の抱えた分と差し引きゼロ、あるいはそれ以上の量である。頭痛くなりそうな量、と呟くと言うな気が滅入ると主人が打ちひしがれていた。ミツヒデは慣れた風情で苦笑している。
「置いとくぞー、ゼン」
「……ああ……」
「頑張れって。あと半分くらいだから」
「あ、と半分……?」
まだそんなに、とゼンの絶望が見えた。どさりと容赦ない音を立てて文献を置き、ミツヒデは木々の腕から書物の半分を引き取る。
「これ終わったら今日は休みだろ。すぐだよすぐ」
「おまえ、他人事だからってな……」
ゼンの苦言を笑って流すミツヒデを横目に、残りの文献を抱えた木々はさっさと踵を返してしまう。オビは感心してミツヒデを見やった。
「紳士ですねえ、旦那」
「ん? そうか? 紳士?」
「紳士紳士。木々嬢の持ってた本も嫌味なく」
「ああ、普通だろ。重そうだったし」
「いやあ、さすが超貴公子。素質ありますよね!」
「なんだ素質って、忘れろその話!」
「だあっ! うるさいおまえら!」
すっかりやぶれかぶれである。一喝された二人はそろって口を噤み、ミツヒデはすまんと殊勝に一言、オビはですよねえと悪びれる。
暇潰しとはいえ主人の邪魔になるのは本意ではない。書棚へ向かうミツヒデにオビもついていくことにした。
奥まった書架の影、光をやわく反射するブロンドが彼女の存在を知らしめる。木々は文献のラベルを見ながら黙々と書物の片付けに勤しんでいた。
「手伝いますよ、木々嬢」
「じゃあ、これ、ラベル通りに戻しておいて」
次の瞬間には書物の山が容赦なく自分の腕に移動していた。
木々嬢の頼みなら、と乾いた声で引き受けながら、オビは軽率に口を挟んだことをすでに後悔している。有能で仕事も早いくせにこの側近たちは案外人使いが荒い。そもそもラベル通りにと言うがラベルだなんて細やかなものを読み分ける作業には向き不向きがある。
動作の鈍くなったオビには目もくれず、すでに木々は背後の書棚に向かって別の作業を始めていた。
「あとはそっちの資料か?」
「うん」
オビの隣で、オビと同様の作業をしながら、ミツヒデは木々と必要文献の話を繰り広げている。おまけに明らかに効率よく手が動いているのは彼らのほうで、オビは一向に減らぬ書物に早々に嫌気がさしていた。
首を巡らせると窓辺の主人が見える。オビに気付いたゼンがにやりと笑ってみせた。ざまをみろ、とその顔が言っている。
「うーわ、嫌味っぽい」
「うん?」
「いやこっちの話です。あ、木々嬢、それ」
背後で物音がして、目を向けると木々が梯子を動かしているところだった。ただでさえ広い書庫のさらに奥、書架の傍らで息を潜めていたはずのそれはどうやらあまり使われておらず、見たところ立て付けもよくない。
俺がやりますよと、体よくラベルとの睨み合いから逃げるべく口を開いて、しかしそれより先にミツヒデが動いた。抱えていた書物を手早く床に置いて、梯子を押さえる木々の指先に手を添える。
「いいよ木々、俺がやる」
「……別に、平気だけど」
「危ないだろ。怪我したらどうするんだ」
大事な手なんだから。
オビは危うく書物を取り落とすところだった。大事な手、いや、確かに大事であることに間違いはないが、口にできるものか普通。深意はなさそうだがこわいあの人、と二人を見ると、ミツヒデは平然とした顔で木々の手を梯子から外していた。
しかし木々の表情も案の定である。
「木々嬢、顔、顔」
「もう慣れた」
「いや、でもドン引きって書いてありますよ、顔に」
「なんだ二人して……。木々、これどこに動かすんだ」
こっち、と木々の示した場所へ、言うことの聞かぬ梯子をミツヒデがどうにか移動させている。
「相当使われてないな、これ。傷んでるみたいだし」
「そもそもこの辺の本に用ある人なんています? うわ埃もすごい」
おまけに棘やささくれまである。ミツヒデの言い方というか口説き文句はともかくとして、たしかに怪我をしかねない代物ではある。少なくとも彼女にやらせることではないだろう、とオビが書物を置いた矢先に白い手が梯子に伸びた。
「ってうそ、木々嬢ストップストップ」
彼女はお構いなしである。あまりにきれいに無視されたため、あれ俺声出てます、と思わずミツヒデに確認してしまった。
そうこうしているうちに木々が支柱を掴んだ。両手と踏板を踏む足とで体を支え、危なげなく梯子を上り始める。年季を感じさせるいやな音がした。
「いやいや木々嬢、これほんとに危ないですって」
踏板がぎしぎしと鳴いている。下段でこれでは上段はもっと傷んでいるかもしれない。危ぶんで肩を掴もうとして、しかし木々はそれをすり抜けるように梯子を踏みしめる。四段目に差し掛かるとひときわ大きく踏板が軋んだ。
「ちょっ、木々嬢、一旦」
下りましょう、と言いきらずにオビは言葉を飲み込んだ。
それまで黙っていたミツヒデがおもむろに手を伸ばし、怒るなよと一言告げて彼女の脇腹からひょいと抱え上げる。オビは文字通り目を疑った。
「傷んでるって言ったろ」
この瞬間ほど主人の不在を恨んだことはない。
あまりに自然な流れでオビは自分の取るべき反応がわからなかった。突っ込むべきか。胸を撫で下ろすべきか。現状むしろ胸焼けに近い。
ミツヒデは何食わぬ顔で木々の体を下ろしている。
「落ちたらどうする」
「落ちないし。それに傷んでるならなおさらでしょ、私が一番軽い」
「そういう問題じゃないだろ。埃まみれになるぞ」
「別に……」
木々の反論を遮るように、ミツヒデの手が彼女の美しい髪に触れた。うやうやしく、けれど嫌らしさの欠片もない手つきでさらりと。
「髪だってな。せっかく綺麗なんだから」
埃なんてかぶるものじゃない。
同感ではあるが素面でやらないでほしい。
(……えー)
ここでようやく木々がミツヒデの足を踏んだ。ここなのか、とそれまでスルーされた超貴公子ダイジェストが脳内を駆け巡る。ここまで照れも動揺も一切感じさせない彼女はさすがとしか言いようがないが、それはそれで慣れ切っているようでやるせない。
繰り返す。オビは胸焼けしている。
「あのー、イチャついてるとこ悪いんですが」
「なんだそれ……」
「いや、ていうか旦那それ、え? 素? 口説いてらっしゃる?」
「は?」
「オビ、突っかかるだけ無駄」
「あ、やっぱり?」
天然ですよね、とようやく木々への同情が芽生えた。オビはやれやれと天井を仰ぐ。なにか一気に疲れた。
「俺、そろそろお嬢さんのとこ戻っていいですか」
「いいよ、それ、そこ置いといて」
言われるがまま抱えていた書物を置き、消化不良を持て余したままその場を後にする。白雪によろしくな、とミツヒデはそういうところも抜かりない。黙っていてほしい。
窓辺に戻ると、一連のくだりを眺めていたらしいゼンが文献に轟沈していた。
「主、あれ」
「言うな。慣れろ」
身のためだ、とゼンの声は虚無に近い。ですよね、とオビは窓を開けた。
「でも、俺、ミツヒデさんってすごいと思いますよ」
「奇遇だな、俺もだ」
感情のこもらぬ会話である。ゼンはそのまま、白雪によろしくな、とどこぞの側近とまるで同じ台詞をオビに言付けた。
果たして話していいものか。白雪に語って消化してしまいたい気持ちもさることながら、笑い話にもならないあたりがな、とどうにもならぬ胸焼けを引っ提げた状態で、オビは窓から飛び降りた。
(2013/02/04)
過去サイトの記念リクエスト「天然で貴公子ぶりを発揮するミツヒデ、ゼンとオビを絡めて日常的な話」