bitter bitter bitter
じんわりと重だるい憂鬱がまとわりつく。
せっかくの休みに、と木々の気分は晴れない。
最悪と称して差し支えない現在の気分について、その原因の九割ほどはデートだ何だと勝手に自分の名を出された会話にあるが、残りの一割はそれを不毛だと感じ取った自分にある。行き場のない苛立ち。些末な不快感。勢い余って施錠するに至ったが意趣返しにしてはかわいいほうだ。
鍵はかけたままだが通りがかりの女中に差し入れを頼んでおいた。そのうち開くだろう。木々はそのまま書庫に向かい、資料を片付けながらこの後の時間をどう潰そうかと考えている。せっかくの休日である。寝るのも勿体ないし、読み溜めていた本を読みきってしまうか、それとも稽古場に向かうか。
稽古場。あの男と出くわしかねない。
木々は早々にその選択肢を取り下げた。今顔を合わせるのはばつが悪い。
部屋でのんびりしているのが得策であろう。
消去法による結論を弾き出して、木々はぐっと書棚へ手を伸ばした。
「ここか?」
けれど木々の苦労を軽々飛び越え、掠め取った本を呆気なく書棚に収めた男はこれまでの思考をも無駄にしてくれた。たった今顔を合わせるのは分が悪いと判断したところだ。木々はうんざりしてミツヒデを睨みつけた。
「……なんだよ、ありがとうだろ、ここは」
「今ちょうど腹が立ってたところ」
「どういうことなんだ」
ひどいな、とミツヒデが苦笑する。ひどいのはむしろこの男のタイミングの悪さである。
木々は諦めて溜め息をついた。
「何しにきたわけ」
「え? いや、片付けに」
「遅い」
「木々が鍵かけてったからだろ」
執務室に半分ほど残してきた資料を抱えながら、ミツヒデは憮然と口を尖らせる。大の大人がその表情はやめてほしい。似合っているあたりもどうかしている。
「会話のダシにされるの嫌いなの」
「あ、そっちか。てっきり俺とのデートが気にくわないのかと」
「それもあるけど」
「あるのか……」
結局立ち去るタイミングを逃してしまった。木々は仕方なく彼が持ってきた資料に手を伸ばして、それに気づいたミツヒデが悪いなと軽やかに笑う。
これだ。ゼンに木々とデートでもと言われてそういうのもありかと深く考えもせずに頷いたり、デートに難色を示されて打ちひしがれていたくせに今はあっけらかんと笑っていたり。
重心がない。所詮彼にとっては人付き合いの一環なのだろう。
無造作に木々との距離を詰めようとする、けれどミツヒデからすれば大層なことではない。本気で断ったとしても残念だなと笑って終わるのだろう。発端がそもそも主人との取りとめのない会話だ。仲間として、の、軽いコミュニケーションに過ぎない。
それが木々にとっては癪であった。そしてそう感じる自分が何よりもおそろしい。
「じゃあ城下にでも出ないか、これ終わったら」
「話聞いてた?」
「いやあ、改めて。デートのお誘い」
「ここって鍵ついてたっけ」
「それは遠回しに断ってるのか?」
伝わってるならいい、と木々は受け流す。ミツヒデは笑うだけだ。この会話の何が楽しいのか木々にもよくわからない。
「そんなに俺と二人が嫌か」
「四六時中いっしょにいすぎて見飽きた」
「何をだ、何を」
手を動かしながら。目は資料のラベルに向けたまま。普段と何ら変わらぬ調子でミツヒデが続ける。
「あ、それとも先約ありとか」
木々はいよいよ呆れ返った。
「どこの物好きが私なんか誘うの」
何が悲しくてこんな口数の少ない人間と。彼にしたって、もっと話が上手くて付き合いの良い友人がいくらでもいるだろう。
手にした文献が最上段に片付けるものだったので、ミツヒデに押し付けてしまおうと彼を見ると視線がぶつかった。さっきまでこちらを見向きもしなかったくせに真正面からかち合う。木々は少々たじろいだ。
「……何」
「……いや、なんかなあ、木々って変だよな」
「は?」
あんたに言われたくない、と木々はかろうじてその言葉を飲み込んだ。
往々にしてミツヒデは木々に対して他人とは異なる評価を下す。たとえば周囲は木々を無口な人間ととらえるがミツヒデはそうとしない。クールと呼ばれる木々をミツヒデは感情豊かだと言う。そしてその表現が他人と異なるということに気付いておらず、そうこうするうちに木々のほうもミツヒデに周囲と異なる印象を抱くようになっていた。ミツヒデは確かにお人好しで世話好きで多少間抜けだ。けれどこの男、彼自身も無意識だろうが、人が思うよりもずっと厄介な性格をしている。
「もっと自惚れてもいいのになあ、木々」
わずかに苦味のある笑みを浮かべて、ミツヒデは何気ない仕草で木々の頭に触れた。なんてことはない、気軽に交わす会話のように。
これだ。
「触るな」
「え? ああ、悪い」
手を振り払うとミツヒデはついと言って笑った。ついとは何だ。
持っていた本を今度こそミツヒデに押し付けて、木々は気取られぬように深く息を吸う。そのまま吐き出して脳を換気。ほんとうに、この男。
下心などない。深意などない。
そうとわかっていて、それなのにいちいち翻弄される自分がひどく腹立たしい。冗談でデートと口にしてしまうこの男との距離感がいちいち怖ろしい。
「まあ、とにかく、気晴らしにでもどうだ」
「まだ言ってるわけ」
「木々もこのところ根詰めすぎな気があったからな。心配してたんだぞ」
軽々と本を片付けながらまた勝手に木々との距離を詰める。それもどうせ無意識に違いない。
木々は大きく落胆した。やめろと言ったところでどうせ伝わらない。だから自分をコントロールするほかない。それくらいわかっている。
けれど高鳴ってしまいそうになる心臓が。
自惚れてしまいそうになる滑稽な自分が。
なんて馬鹿馬鹿しい。
「悪いけど遠慮する。読みたい本もあるし」
「そうかー、残念だな」
ならもっと残念そうに言え。
あまりに不毛で頭痛がしそうだった。けれどもう構ったほうが負けだと木々は深く考えることをやめる。何を言っても仕方がない、これがミツヒデという男なのだ。
折良く片付けが終わったこともあり、木々はそれじゃあと手っ取り早く踵を返した。
「あ、木々!」
「何。まだ何かあるの」
「……あー、いや、まあ、ゆっくり休めよ」
何故か苦笑を滲ませるミツヒデである。彼にしては不自然なその表情と口調とに、木々は思わず聞き返しそうになって、けれどすぐに思い止まってやめた。深く考えるな。
どうもとだけ返して書庫を出る。途端に一気に頭が重くなって、寝よう、とこのあとの予定を変更した。
木々はこの城では護り戦う身だ。女扱いなど望んでいない。
けれど彼といると矛盾した感情が頭をもたげてしまいそうになる。万にひとつそれを認めたとして、それはどう転んでも不毛としか思えなかった。何せあの男は木々を身内として可愛がろうとしている。世話好きもここまでくると病気だ。
腹が立つ。
本来芽生えるはずの苦しい感情を、木々はむりやり怒りの方向へと落ち着けた。
3巻おまけネタ。旦那サイドの不毛な話とあわせて掲載してましたがそっちは紛失しました。