ブラックボックスの内幕
あれ、と頓狂な声を上げたのはオビだったがミツヒデの見る限り反応はいまひとつだった。というのも彼が声を上げたのは木々の背後で、その声も間違いなく彼女に向けられたものだったが、木々は黙々と書類の文面を追うばかりである。本人のリアクションがそれでは外野であるミツヒデやゼンが口を挟むのも気が引けて、結果、手の出せぬ沈黙が室内に充満する。
沈黙を破ったのは結局オビ本人であった。
「……木々嬢、何かしら反応してくれないと」
「何が」
「いや、こう、うざがるとか、面倒臭がるとか、いつも旦那にしてるみたいに」
「ああ」
「おいそこの会話」
耐えかねて口を挟んだが今度はこちらが無視された。会話うんぬんよりも扱いについて抗議するほうが先かもしれない、とミツヒデは思案する。
「で、何」
「ちょっと髪よけていいですか」
「却下」
「早っ。いや、下心とかじゃなくて、なんか赤くなってますけど」
かぶれてるなら診てもらったほうが、とオビは思いがけず真面目なトーンである。木々もさすがにそれを無下にするほど淡泊でもなく、どこ、とここでようやくペンを置く。それを承諾と取ったオビが失礼と彼女の髪に指をすべらせた。
「痛みとかないです? なんだったら薬室寄ったときに、……あー」
「何?」
「いや、これ、……もー旦那ってば」
「なんだ? 俺?」
顔を上げるとわざとらしく首を振っているオビと目が合い、ミツヒデが首を傾けるとこれ、と彼の指先が木々の首を示した。首というよりうなじである。気安く触らないでほしい。
「普通こんなわかりやすいところにつけます?」
「だから何の話を」
「心当たりないならそれはそれでご愁傷さまですけど」
「あんたさっきから何の話してるわけ」
いい加減オビの手を払った木々が今度こそ面倒臭そうにオビを振り返る。彼女の剣呑な視線にも臆さぬオビはここ、と自身の該当箇所をとんとんとやって、キスマーク、とあけすけに告げた。オブラートも何もあったものではない。
「主は耳塞いでてくださいね、刺激強すぎるんで」
「いや、強くないからな、ゼン、断じて」
「おまえら俺を舐めてるのか」
「耳赤いですって、耳」
うるさいと撥ねつけるゼンの耳はやはり赤く、そのまま彼の純情のほうに話題がシフトするかと思いきや相手もそう甘くはなかった。それで、とオビは今度は木々に心当たりを尋ねる。
「虫刺され」
「うわあ。よく聞く常套句」
「事実。そもそもミツヒデにそんな甲斐性なんてない」
「おーい、俺はここにいる」
「旦那はそうでしょうけど、じゃあ、他の男?」
ミツヒデは思わず木々の顔を見た。え、と声を取りこぼしたのは他でもないミツヒデ自身で、そんなミツヒデに今度はオビが視線を向ける。
「あれ、木々嬢、まさかほんとに旦那じゃない?」
「虫刺されって何度言えばあんたの耳に届くわけ」
「木々――」
「うわ、主! 修羅場! 修羅場!」
「おまえほんといい加減にしろよ……」
ですよね、と大袈裟なゼンとのワンクッションを挟んでから、オビが改めてミツヒデを見た。少なからず地雷を踏んだ後ろめたさはあるようで、柄にもなくしかつめらしい顔をしている。それはそれで胡散臭い。
「旦那がそういう反応なら虫刺されだと思います」
「あのな……」
「いや、ほんとに。そう見えるし。ちょっとかまかけてみただけです」
虫刺され虫刺され、と誰に言い聞かせるつもりなのか、オビがわざとらしく復唱してこの話題は切り上げられた。一足先に切り上がっていた木々は、当事者だというのに他の誰よりもいつも通りで、やはり黙々と書類にペンを走らせている。
真相を確かめようにも掘り返すタイミングを逃した。
ミツヒデはもやつく思考を振り払うようにかぶりを振って、ちらちらと視線を寄越すオビにも気付かぬふりをして仕事に戻る。
***
そうして結局何も聞けぬまま、それどころか聞いていいものか踏ん切りもつかぬまま、業務も終えて資料室にて二人きりである。
慣れた手つきで資料を書棚に戻していく彼女の背を眺めながら、ミツヒデはまだ迷っていた。彼女の魅力でもあるポーカーフェイスはこういうとき少々恨めしい。
本当に虫刺されかもしれないがそう思わせるトーンでそうではないという可能性もおおいにあり得る。けれど彼女が自分に何も言わないという事実を鑑みるとやはり虫刺されの可能性が高い。というかそうであってほしい。
ぐずぐず考えていると不意に木々が振り向き、彼女を見つめたままぐずついていたミツヒデはばっちり彼女と目が合ってしまった。まずい、とミツヒデが背を伸ばしたのと、木々が不快そうに眉を顰めたのはおおむね同時である。
「――手動かしたら」
「あ、いや、こっちは終わってる」
「そう。何か言いたいことあるなら口で言ってくれる」
「う」
ばれていた。いや当然か、とミツヒデは降参する。
「……いや、その、さっきの話」
「……」
「虫刺されって本当か?」
木々はなにか推し量るような目をしている。呆れられるか毒を吐かれるか、最悪無視されることも予想していたミツヒデにとって、無言で様子を窺われるという反応はいささか想定外であった。
「あ、いや、別におまえを疑ってるわけじゃないぞ。その、なんというか、オビの言い方が」
「……ちょっと、待って」
「え?」
言い訳を遮った彼女の声は、表情の通りこちらを窺うようなそれだった。的外れなことを言っていれば彼女の声は冷ややかになるはずで、木々が怪訝がるとなると的外れどころか話が見えない時だ。何よりも細められた瞳がそう言っている。何を言っているのだ、という。
「それ、本気?」
「え」
「本当に覚えてないわけ」
今度はミツヒデのほうが話が見えない。何を、とおそるおそる問うミツヒデに、木々はいよいよ深い溜め息をついた。
「これ、あんたがつけたやつ」
「――は?」
「あんたがつけたやつ」
彼女の判断は実に賢明で、同じ言葉を二度繰り返されてようやくミツヒデは彼女の言葉を理解した。
開いたままの口をぱくりと閉ざす。
変な汗をかきそうだ。
「……い、いつ」
「ゆうべ。もっと詳しく教えようか」
「いや……」
思い当たる節というか、記憶そのものはある。問題はどのタイミングでぶっとんでいたかだ。記憶を辿ろうとして、心当たりより先に彼女の肌の感触を思い出してしまってすぐにやめた。
「……俺、そんなにがっついてたか」
「その話今したい?」
「したいっていうか、その、無理させたなら本気で謝る」
「その前にこっちの件で反省してくれる」
はい、とミツヒデは素直に小さくなった。彼女の視線はこの上なく冷ややかで、正直冷たいを通り越して痛い。
「……木々」
「何」
「すまん」
いろいろ。謝罪すべき案件は山ほどあったが、明確にすると地雷を踏みかねないのでざっくりと謝罪することにした。何よりキスマークだなんて青臭すぎていたたまれない。
木々は何か考えるように黙り込み、しばらくしてから別に、と応じた。別に、の前に小さな溜息が聞こえた気がするが、心が折れること請け合いなのですぐさま記憶から抹消する。
「あんた嘘下手だし、覚えてなかったおかげでオビは誤魔化せた」
「そういう問題か……?」
「そういう問題」
まあそういう問題か、とそれはそれで納得するミツヒデである。
「それに私にとっても都合がいい」
「そ、――え?」
「覚えてないんでしょ」
躊躇なく認めるのもどうかという話であるが、都合がいいと言われた手前ミツヒデは素直に頷いてしまった。新たな情報が出てきて少々混乱していたこともある。
ミツヒデの思考がぐるりと彼女の台詞を吟味する。
都合がいいとは。つまり。
「どういう――」
「先戻る」
「ちょっ、木々!」
まったくもって見事な敵前逃亡である。
お手本のような言い逃げをかまされ、取り残されたミツヒデは自分でも間抜けとわかるほどの表情で固まっていた。
もったいない、と、咄嗟に浮かんだ言葉はそれである。最中の記憶を紛失した事実が彼女にとって好都合なら、おそらく、忘れるなど勿体ないほどのイベントが何かしら発生していたに違いない。
あるいは意趣返しを目的とした彼女のでまかせか。
あの性格なら充分にありうる。
どっちだ、と疑念と期待と後悔とを持て余し、ミツヒデはごつんと傍らの書棚に頭をぶつけた。
(2015/11/16)