カデンツァ
普段通りの日常を疑わず、いつもと同じ時間に主人の部屋に入ったミツヒデはそこで立ち尽くした。
ベッドに沈むゼン。まごうことなき爆睡だ。起きる気配はまるでない。
しまった、とミツヒデは天井を仰ぐ。
昼まで休みだ。
「ちょっと、そこ邪魔」
背後からの声にはっとする。
振り向くと木々がその言葉通り邪魔そうな顔でミツヒデを見ていた。ああ、悪い、と体をどかしながらぼんやり彼女を眺める。その視線に気付いた木々が今度は不審者を見る顔つきでミツヒデを見上げてきたので、不審者に対する警戒はともかく相棒に対する優しさがもう少しあっても、とミツヒデは苦笑する。
「……だめもとで言っておくが、睨むなよ」
「喧嘩売ってるわけ」
「いや」
すでに睨まれている。ミツヒデは諦めてひとつ提言した。
「昼まで休みだ」
「――あ」
彼女が声を取りこぼすという稀代の絵面である。冷静沈着な相棒の滅多にない姿にミツヒデの気分はすでに差し引きゼロであったが、ひとつの得もない木々はすぐさまミツヒデを睨んだ。案の定だ。
「忘れてた」
「俺もだ」
だから睨むなと両手を広げる。爆睡を決める主人の傍らにばつの悪い側近が二人。なんとも間の抜けた状況である。
ミツヒデは息をつくと彼女の肩をやんわり押して扉に誘導した。何、と木々は理不尽な棘を残したままミツヒデを見上げてきたが、足はしぶしぶミツヒデに従う形である。ここにいても仕方ないと同じ結論を弾き出したのだろう。
「押さないで。歩ける」
「はいはい」
露骨な不機嫌がすこし可愛い、と思ってしまうのは要するに重症なのだろう。気付くと頬が緩んでいて、睨まれるかと思ったら全面的に無視された。何度も言うが優しさがあと少しほしい。彼女の不機嫌を刺激せぬようひそかに笑いながら、ミツヒデはゆったりと歩幅を合わせる。
***
外に出ると穏やかな風が草木を揺らしていた。程よい静けさ、加えて天気も良い。朝から散々な体たらくだが少しは得したかもしれない、とミツヒデは息をつく。
「それで、どこ行くわけ」
「どこにも」
人目がないことを確認して、ミツヒデはそっと木々の手を取る。小さく華奢で、けれど確かに剣を握りたたかうてのひら。
「今日は昼まで木々とデート。決めた」
「なんか詐欺くさいな」
「だってデートって言って誘うと鍵しめるだろ、木々」
地味にあの一件を根に持っているミツヒデである。
木々は面倒臭そうにミツヒデを一瞥した。まだ言っているのか、とかそういう含みがある。この温度差はどうだ。
「それいつまで引っ張るわけ」
「傷ついたんだ!」
「女々しい」
傷ついたと言う人間の傷をさらに抉ってどうする。これが感情表現における一種の不器用であればまだかわいげもあるが、彼女の場合くるむべき表現からあえてオブラートを引き剥がしているのだからたちが悪い。
「この手は」
「いいだろ、これくらい」
「だれかに見られると思うけど」
「なら牽制も兼ねて」
ぎゅうと握る手に力をこめて微笑むと胡散臭げな視線が突き刺さった。ミツヒデは素知らぬふりでやり過ごす。
牽制という言葉に何を含ませているか気付かぬ木々ではない。普通なら照れるとか満更でもない顔をするとかそれなりの反応もあるだろうが、彼女に関して言えばこれがいつもだ。つまりミツヒデのあけすけな執着を胡散臭がるのが木々である。そうしてその素っ気なさがまた可愛いと思ってしまうのがミツヒデで、先にも述べたが、重症だ。
「――あんたって」
「うん?」
言いさした木々が言葉を選ぶ。あるいはオブラートを引き剥がしているところかもしれない、とミツヒデはひそかに身構える。
「過保護」
「今さらか」
「ゼンにだけだと思ってた」
言葉少なに告げられたのは彼女自身に対する執着の話で、そしてそれを彼女はやはり無頓着に話すのだ。
微妙だな、とミツヒデは足を止めた。伝わっているようで伝わっていない。
ならって彼女も歩くのをやめる。向き直って怪訝そうに見上げてくる瞳をとらえ、ミツヒデは探るように笑った。
「過保護かな」
「過保護」
言い切った木々が傍らの木の幹に背を預ける。握られた手はそのままに、自覚ないの、と首を傾けて。
「いや、うーん、ゼンはほら、なんだかんだ言ってまだ目が離せないというか」
「私も目が離せないわけ」
「そうじゃないって」
本人にその気はないだろうが、ちょっとした挑発に聞こえる。無防備だ。
ミツヒデはさくりと足を進めた。慎重に彼女との距離をつめる。
「木々は、目を離したくないからな、俺が」
「一緒に聞こえる」
「違うさ」
彼女の頭上に手を置く。急に縮められた距離に木々が少し驚いた顔をした。珍しい表情だ。おそらくそれはミツヒデも同じだろう。こんな言動など柄ではない。それでも気をよくしたミツヒデはさらにぐいと顔を近づけ、右手で彼女の指を絡めとる。
「わからないか? ゼンのは庇護欲。木々のは」
「……」
「独占欲」
やわらかい風が吹き抜ける。枝葉の擦れ合う音も揺れる木陰もおそろしく長閑で、至近距離で交じわう視線だけがしたたかな攻防を繰り広げていた。
終わりを見せないそれに、やがてミツヒデが動く。ゆるりと顔を寄せて、強情に引き結ばれた唇へ。
ぎりぎり触れる寸前、木々がぐいと肩を押しのけた。
「――調子に乗るな」
「だよなあ」
体を離して両手を広げる。降参のジェスチャ。木々の表情はひとつも動かない。
「いや、デートだしこれくらいは。それに木々、抵抗しないから」
「セクハラ」
「言いすぎだ」
辛辣な言葉に反して繋いだ手は振りほどかれない。彼女の言動ひとつでミツヒデはいとも簡単に自惚れてしまうのだ。
「そろそろ戻ったほうがいいんじゃないの」
「まだ大丈夫だろ」
わかりきった答えに木々もそれ以上の文句を言わない。そういうところだ、とミツヒデは破顔する。ゼンにこの顔を見られたら間違いなく足蹴にされる。
日がのぼりきるまでまだ時間はある。あとどれくらいで戻るべきか計算を始める仕事脳に呆れながら、それでもミツヒデの機嫌はいい。