チェネレントーラはほど遠い
ノックに応答がない。
木々の私室、扉の前で、ミツヒデは途方に暮れていた。夜会まで一時間を切ったこの状況下、いつもならとうに準備を済ませて出てきているはずの木々が、姿を見せない。
たっぷり十秒を数えてもう一度ノックをする。やはり返事がない。掲げていた手を下ろし、どうしたものか、とミツヒデは頬を掻いた。
部屋にいないはずはない。
ここに向かう途中、こういった機によく彼女の身支度を手伝う侍女とすれ違い、声をかけたところ苦笑された。いわく手はいらないと、つまり追い返されたらしい。お部屋にいらっしゃいますよと見透かされてさすがにばつが悪かった。
ともあれ彼女が部屋にいるのならこうしていても埒があかない。ミツヒデは諦めて扉に触れた。応答なしということはつまり入るなという返事もなかったということだ。絶対にあとで怒られる。けれど呑気に待っていられるほどの時間もない。
「木々、入るぞ」
一応声をかけて五秒ほど待つ。
沈黙である。ミツヒデは嘆息してドアを開けた。
案の定木々はいた。
部屋の奥、身を投げるようにして、寝台に突っ伏している。
「木々」
コルセットだけを纏った背中が、ミツヒデの呼び掛けに応じてもぞりと身じろいだ。解かれた髪が剥き出しの肩口から流れ落ちる。
起きてはいる。
けれど寝台に広げられたドレスと、もはや着替えにも辿り着かなかった格好と散らばった髪、どこからどう見ても身支度の途中だ。しかもかなり早い段階で放り出されている。
ミツヒデはやれやれと投げやりな背中に近寄った。
「調子でも悪いのか?」
「……別に」
くぐもった声が不機嫌に応じる。少なくとも反応があったことにミツヒデは胸を撫で下ろして、ゆっくりと寝台の縁に腰掛けた。反対側に広がる、大して派手でもないドレスを見やって気が重くなる。
「勝手に入ってこないで」
「だったら返事くらいしろよな」
「聞こえなかった」
「嘘つけ」
木々が緩慢に寝返りを打って背を向けた。華奢な背中をゆるく丸めて、億劫、と全身で告げている。彼女が表出する感情の種類としてはずいぶん珍しいものだった。
「そろそろ支度しないと間に合わないだろ」
「……着たくない」
挙げ句には駄々をこねるという稀代の様相である。
ミツヒデはじんわり苦笑して手を伸ばした。
「おまえの言い分もわかるがな」
宥めすかすように頭に触れる。さらさらと感触の良い髪を梳き、指がつかえてはからまった髪を優しくほぐす。木々は文句すら言わない。
「だが、遅れてはゼンの顔を潰すぞ」
「……その、ゼンの」
力ない声が溜め息と共に吐き出された。
「ゼンの護衛に、ゼンを護るために側に仕えてるのに、なんで、こんな格好」
吐露される彼女の本音に、やっぱりな、とミツヒデは息をつく。
木々の着飾り嫌いは今に始まったことではない。着れば誰より美しいというのに、誰よりもその場に相応しいというのに、彼女はおおむねつまらなそうな顔をしている。その理由の大半は堅苦しいとか面倒臭いとか、彼女らしい性格の反映であるが、たまに、こうして匙を投げた。
嫌気がさすのだろう。
護衛という身でありながらドレスを纏うという矛盾は、たぶん、木々の性格上消化しづらいのだと思う。
「……なら、着ないか?」
「野暮だって言われて、それはそれでゼンの顔を潰すでしょ」
「いっそのこと出ないとかな」
「……」
木々が黙する。匙を投げたところで最終的に拾わねばならないと、彼女だってわかってはいるのだ。
「……出るよ。わかってる」
吐き出されたこたえは、納得したというより、むりやり嚥下したようなものだった。
ミツヒデはいつもやりきれない。ゼンを護りたい気持ちは同じなのに、彼女ばかり息苦しそうで、できることといえばこうして彼女をせっつくくらいである。せめて上手いこと楽にしてやれたらとは思うが、いまだにその術は見つからない。
薄い肩に触れる。一息置いて、彼女の体からゆるりと力が抜けた。
「今から、着替えて」
「うん」
「髪まとめて、顔つくって、間に合うかな……」
「あと一時間くらいある。手伝うか?」
「いらない」
冗談めかして言うとあえなく一蹴された。そうだその調子、とミツヒデは一人で笑う。
「そもそも万が一のことあったとして、おまえならドレスの裾蹴り上げて一撃食らわせるくらいはするだろ」
その光景が鮮明にイメージされてしまうのだから空恐ろしい。しかも相当強烈な一撃であろう。
不自然に黙した木々がじっとミツヒデを見つめた。え、とミツヒデはたじろぐ。彼女はどうにも不精の名残りが働いているようで起きる気配がなく、ふたつの無反応に困惑していると、やがて彼女が別にと感情のこもらない声を発した。
「やってもいいけど、だれかさんが怒りそうだから、やらない」
おやとミツヒデは瞬く。彼女にしては殊勝というか、よく自覚している。こういうことには長らく無頓着な木々が。
「だから何かあったらあんたが頑張ってね」
「そういう話か……」
そうだ。そういう相手だった。
勝手に納得しているミツヒデを横目に、木々がようやく重たげな半身を起こした。見守っていたつもりがコルセットの届かぬ白い背中に目が行ってしまい、少しくらい、と欲張ってみることにする。
「見返りは?」
「何の」
「元気になっただろ」
木々が肩越しに温度の低い視線を寄越した。ひんやりと冷えたまなざし。じっと視線を据えられ、けれどミツヒデも穏やかな笑みを崩さずに粘る。ふたつの思惑が拮抗する。
やがて木々が静かに息をついた。
「……あとでね」
「おお、それは期待大だな」
途端に逸る気持ちを誤魔化すようにおどけると、今度こそ剣呑な視線が突き刺さった。
「いいから出てって。支度する」
「はいはい」
相変わらず容赦はないが調子は取り戻せたようである。手櫛で髪を寄せる木々の白いうなじから視線を引き剥がし、安堵とあとで、の期待を胸に、ミツヒデは部屋を後にした。
(2013/02/20)