Fair Toss
うつらと目を覚ますと広い背中があった。
木々は二度ほど緩慢に瞬いて、しぶといまどろみを瞼から追い払う。寝台に沈む身体はまだだるく、こっちはもういいか、と早々に見切りをつけた。
身じろぐと剥き出しの肌にシーツがまとわり付く。ミツヒデは寝台のふちに腰かけたまま、木々に見向きもしない。
「……なにしてるの」
思いがけず掠れた声が出た。軽く咳払いしているとミツヒデが振り向いて、おはようと笑う。まだ二時だ。
「上がりぎわに追加書類あったろ。明日休みだし、急ぎの書類があったらまずいと思ってな」
「ふうん……」
「手伝ってくれてもいいぞ」
「遠慮する。眠い」
「あのな……」
ミツヒデは呆れているが、そもそもだれのせいでこんなに消耗しているかという話だ。木々は文句も無視してシーツを被る。
だいたい納得がいかない。今のミツヒデは上は裸のままでほぼ半裸に近い。彼自身はそうやって無頓着なくせに、木々がシャツ一枚引っ掛けたような格好でいると怒る。理不尽だ。
理不尽に納得がいかず、一度、あんたが脱がせたんでしょと屁理屈をこねたことがある。その後見事に返り討ちに遇ったため二度と言わないことにしている。理不尽だ。
理不尽、と木々はその言葉を拾って少し可笑しくなった。これはひとつの変化と言っていい。
最初のころは彼の前で肌を晒すことに抵抗があった。あちこちに傷の残った体に引け目のようなものがあって、不必要に彼の目に触れるさせることを避けていた節がある。シャツ一枚など考えられなかっただろう。
けれど彼は傷ごと大事にしてくれるから、木々も隠すことをやめた。木々の生き方ごと受け止めてくれようとする男に、些細な傷など気にするだけ馬鹿馬鹿しいと気づいたのだ。だったらその分この男の傷も大事にしてやりたかった。木々よりもずっと多く残った傷跡とその意味を。
そういえば、と木々はシーツから顔を覗かせる。
ミツヒデはすでに書類を捲る作業に戻っている。その背を眺めながら、面積のわりに傷が少ないことにすこし感嘆していた。彼のことだからいざとなれば背中の傷など厭わないだろうが、やはり、うしろ傷は騎士の美徳にかかわる。
木々はそろりと手を伸ばした。
「うおっ」
突然触れられたミツヒデがびくりと反応する。広い背中もぶれぬ体幹も羨ましいが、いかんせんこういうところが間抜けだ。
「なんだ? なんかついてるか?」
「別に」
「別にって……」
木々は構わずに背中をなぞる。時おり傷跡の名残のような、皮膚の固くなった感触を指の腹が捉えた。けれどその程度だ。彼の背はほかの部位よりも傷が少ない。
「……背中の傷、もっと多いかと思ってた」
「ん? ああ、まあ、一応、騎士道みたいなやつだよな」
「ミツヒデのくせに」
「あのな……」
かすかな紙擦れの音。ミツヒデは木々の相手をしながら書類を捲る手も止めない。おそらく頭にも入れているのだろう。この男はこういう、仕事以外の時間に無意識かつ惰性的に仕事に勤しむ悪い癖がある。休むなら休め、と一度ゼンに叱ってもらったほうがいいかもしれない。
「まあ、さすがに無傷ってわけにもいかないけどな。ゼンを護るためならどんな傷だって負うさ」
「しってる」
「あとはあれだな、木々の爪――痛ッ!」
背中の真ん中に思いきり平手を見舞ってやった。寝そべった体勢では思うように力が入らなかったが、そのわりにはばちんとなかなか良い音が弾けた。呻いたミツヒデの背がゆるく丸まる。
「……木々……」
「うわ、手形ついてる。間抜け」
無感動に突き放してごろりと背を向ける。
書類をサイドに置いた音がする。くるな、と次の展開を予測していると案の定視界が翳った。横から覆い被さるミツヒデは思ったほど不満そうでもない。
「……何」
「俺の背中に傷が少ないのは、木々が俺の背中を護ってくれてるからだろ」
「そうかもね」
「木々の背中だって」
俺が、と彼の無骨な指が背中に触れる。皮膚のかたい指先がそろりと背をなぞり、不覚にも肩が震えてしまった。身を捩ったが上手く逃げられず、背中にミツヒデの唇が押し付けられる。
抗う間もなく吸われた。ちりっとした痛みが皮膚の表面から走る。
「――ちょっと、痕」
「俺が護ってきたんだし、これくらいは」
「……倍くらいで返してもらう」
「おお、まかせろ」
顔をあげたミツヒデがからりと笑う。皮肉とか通用しないのかこの男、と木々は呆れた。
「木々の背中ならいくらでも護るさ」
おおきな手のひらが背中にあてられる。ゼンを護るべく剣を握りたたかう手のひらが、確かな意図と意味を持ってぴったりと背に寄り添う。
その手から伝わる絶対的な信頼と安堵感。できれば己の手から、この男にも、と木々はらしくもなく殊勝なことを考えていた。
「じゃあ私も手形分くらいは応えてあげるよ」
「あれ、爪のほうは勘定外か?」
「あんたが加減とデリカシーを覚えるなら考える」
仰向くように身じろいでミツヒデを見上げる。デリカシーはともかく加減はなあ、と苦笑したミツヒデが体を寄せて口づけてきた。
背中に添えられていた手が、今度は木々の頬に添えられる。かわりに木々がミツヒデの背に手を回した。
「……知らないところで傷なんて増やしてくるなよ」
「どっちの意味」
「両方に決まってるだろ」
じゃああんたもね、と指の腹で真新しい爪痕を探る。木々はなんだか気分がよかった。
護られることも傷つけられることも、この男になら一向に構わない。
かさついた唇が木々を求める。くすぐったい、と文句をつけると俺もだ、と笑われたので、木々はやむなく爪痕探しをやめてキスに応じた。
(2013/09/29)