Fender bender
ふと視線が交わった。
何てことのない瞬間だ。目が合うくらい別段珍しい話でもない。ただ強いて挙げるなら、この空間には彼と自分と二人きりで、時間帯もいい頃で、何より近かった。相棒として過ごすいつもよりいくらか近い。ソファに並んで同じ山の書類を処理していれば当然である。
間近に見上げる彼の双眸にわずかな緊張が走った。
くるか、と木々はひそかに身構える。
ミツヒデがややぎこちなく顔を寄せてきた。
案の定と跳ねた心臓には気付かぬふりをして、木々も素直に目を伏せる。
控えめに触れあう唇。口付けのくすぐったさにもこのごろは慣れてきた。内面におけるくすぐったさよりも、おずおず触れようとする彼の唇がほんとうにくすぐったいのだ。
けれど、木々のそれと近いペースで、彼のほうもいい加減躊躇が消えてきたと見える。最初の頃はいちいち伺いを立ててくるものだから堪ったものではなかった。いいかと訊かれたらいやだと答えたくなってしまうのが木々の性分である。
拒むまでもない。
この男の口づけは嫌いではない。
優しく触れた唇がやはり優しく離れ、木々はそろりと瞼を開いた。本当は口付けよりも口付けのあとの、優しくもまっすぐな彼の眼差しのほうが始末に負えない。
「――木々」
けれど今日はどこか様子が違った。
呼ばう声の色に違和感を覚えて、いつもは背けがちな視線を彼に向けるとばちりと目が合う。
余裕のない瞳が木々を射抜く。
こんな目は初めてだ。
「……なに」
「……すまん」
何がと聞く間もなく唇が触れた。触れたという優しい表現が正しいのかもわからない。木々の心臓がざわりとざわめく。
いつもと違う。
戸惑う木々の唇に突然ぬめった感触が触れた。驚いて体を引かせたつもりが頬を掬われ、いつの間にか腰にまで腕が回っていて逃れようがない。衣服越しに感じる彼の体温が思った以上に熱い。したたかなはずの木々の平静をじわじわと掻き乱していく。
「……ッ、待っ」
角度を変えて口付けを重ねられ、隙をついてぬるりと舌が押し入ってきた。
ぎくりと体がおののく。そういうキスだと理解した途端に一気に体中の熱が上がった。ごたつく感情と熱とを持て余し、木々はぎゅうと彼の衣服を握り締める。
「ん、ぅ……っ」
じっとりと、溶け行く甘味をあじわうかのようにミツヒデの舌が口腔をねぶる。得体の知れぬ痺れがうなじから背筋までをゆっくり這いずり、たまらなくなって瞼を固く閉じた。
なにも知らぬほど初心ではない。
こういう口付けがあることくらいは知っている。
けれど、だって、知っていただけだ。
彼の口付けはいつも優しくて、たとえば頭を撫でるとか、傷の具合を見るとか、そういう類いの接触とあまり変わらぬ気分でいた。年長の彼が、いつものように、自分を甘やかす時のような。
それがどうだ。木々の脳髄にじくりと熱がともる。
彼は男で自分は女で、その意味を思い知らされた気分だった。
「――っ、ふ」
名残りを惜しむように唇が離れる。
まだいくらも近い距離、覗いた瞳がばつが悪そうに木々をうかがう。正直ばつが悪いのはこちらのほうだ。
「……な、んなの、急に」
「……すまん」
ミツヒデの双眸はまだ熱を孕んでいる。すまんと言いながらもそれを取り繕えず、結果的に落ち着かない様子の彼が少し可笑しくもあった。本人は本人であまり余裕はないらしい。
「つい、歯止めが……、嫌だったか?」
「嫌だったって言ったらどうするわけ」
「……二度としない、とは、ちょっと言い切れんが」
努力はする、と彼は歯切れ悪くも真剣である。
「……悪かった。木々ってこういうの潔癖そうだし、その、無理強いにならないよう気をつけてたんだが」
「そう謝られるのも癪なんだけど」
「癪ってなんだ……」
ここにきてようやく普段通りの応酬を思わせて、木々はそっと息をついた。知らず強張っていた体からもぎこちなく力を抜く。
「……別に嫌とは言ってない」
「え」
「こういうのって、もっと、気持ち悪いものだと思ってた」
え、と今いちどミツヒデの口から腑抜けた声がこぼれ落ちる。
木々は極力無表情をつとめた。
「あんたなら嫌じゃない」
この男の様子からして、呆けて沈黙という、居たたまれぬ展開を覚悟していたのだが違った。
ミツヒデの手に力が籠る。かち合った彼の瞳はいつの間にか先と同じ熱を孕んでいて、それを間近に捉えた木々は思わず息を呑んだ。
嫌じゃない、という言葉に嘘はない。
けれどこれ以上はもう心臓がもたない。
「――ミツ」
まって、という懇願は喉につかえて言葉にならなかった。強い瞳に呑まれる。どうしてこういう目を日頃から有効活用しないのだ。
身を引かせたもののろくな意味を成さず、木々の心臓を無視して呆気なく唇が塞がれた。
「ん……!」
ひくりと体が過剰に反応を示す。無意識のうちに唇を引き結んでいた。
顎を引くとその分さらに深く追われ、くらりと濃度の高い熱が脳内に押し寄せる。その拍子に重心をなくしてあっさり押し負けた。あわや押し倒されるかという寸前、木々は慌てて肘で体を支える。
慣れぬ口付けのせいで力など入っていないに等しい。だというのに伸しかかる体重にも容赦がない。どうしよう、と木々は柄にもなく混乱していた。
かろうじて自由のきいた手でミツヒデの腕にすがる。
ぎゅうと必要以上に力がこもってしまった。
「あ」
途端にミツヒデが我に返る。
意味を持たぬ声が落下して、微妙な間ののち、覆い被さっていた体がゆっくりと離れた。
「……すまん。調子に乗った」
だろうね、と返そうとして、まともな声が出ない気がしてやめた。木々は不自然を気取られぬようゆっくり身を起こす。深く息を吸って、静かに吐き出して、熱っぽい脳の換気を試みたがあまり効果はなかった。
「……悪いけど部屋戻る。このままいると襲われそう」
「言うなあ……」
ソファから立ち上がる、その些細な動作にさえ力がうまく入らず、木々は自分でげんなりした。キスひとつで足腰が立たないだなんてどんな醜態だ。
いつもならドアまで見送りにくるくせに、腰を上げぬミツヒデは中途半端に気まずそうな顔をしている。
木々はひとつ息をついて腰をかがめた。いやに熱い肩に手を置き、弾かれるように顔を上げた彼の額に口付ける。
「――木」
「おやすみ」
棒でも飲んだかのような顔が可笑しかった。木々はさっさと踵を返してその場を去る。
廊下に出るとやけに空気が涼しい。あいにく羞恥にうずくまるほど可愛い性格はしていないが、自室に向かいながら、果たして眠れるものかと早くも最後のキスを後悔していた。
(2014/05/23)