へルタースケルター
 窓を開けると心地好い夜風が室内に吹き込んだ。  欠けすぎず満ちすぎず、遠くに見える月もいい塩梅である。寝る間際に少し得したな、とミツヒデは機嫌よく窓にもたれかかった。一杯やったら気持ちよく酔えそうだ。  と、不意に遠くから話し声が聞こえた。  ミツヒデはおやと視線を巡らせる。  夜闇に目が慣れるまで少しかかったが、いくらか離れた木の脇、ふたつの人影を視認した。片方は見慣れぬ兵士、もう片方はどうやら見知った人物である。普段とは異なる出で立ちだが間違いない。木々だ。 「木」  ひそやかな笑い声が聞こえて、ミツヒデは思わず呼び掛ける声を止めた。談笑している彼女がいつになく穏やかな表情を見せているのが遠目にもわかる。  日頃の彼女といえばきっちりとした剣士姿と温度の低い言動である。くわえて滅多に隙を晒さぬ性分もあり、その彼女の部屋着姿となるとどうにも男心の奥のほうを揺さぶる何かがある。有り体に言えば下心なのだが、つまり、そういった類いの自覚もなくこんな時間にそんな格好で出歩くなという話だ。せめてもう少し相手との距離を空けるとか何とか。  という、三割ほどは建前である。残りの七割は嫉妬と焦燥あたりのベタなものだ。  ごちゃごちゃしてきたミツヒデは、結局堪えかねて、窓から乗り出すようにして彼女の名を呼んでいた。 「木々!」  ふたつの視線がこちらに向けられる。表向き鷹揚に笑いながら、何してるんだこんな時間に、とミツヒデはひとまずの牽制をかけた。 「逢い引きならもっと人目のない場所選んだほうがいいぞー」 「逢いっ……」  若い兵士が絶句する。それを一瞥した木々が何食わぬ顔でうそぶいた。 「無粋だよ、ミツヒデ」 「木々どの!」  木々はどうやら珍しく機嫌がいい。穏やかな表情も冗談も、心地好い夜のおかげか、はたまた、とミツヒデは笑いながら下世話なことを考える。もちろんはたまたも何もないことくらい頭ではわかってはいる。  わかっていないのはこういう時ばかり狭小なミツヒデの感情と、彼女の隣で慌てふためいている兵士のみである。そういうつもりでは、と必死になって弁明する彼は、やがて苦し紛れに持ち場に戻ると言って逃げる体勢に入った。 「怒られたらミツヒデの名前出していいから」 「いや、そこは木々だろ……。すまんな、夜番頼んだぞ」 「はっ」  律儀に敬礼までして、彼は最後に木々に風邪をひかぬよう言い置いて去っていった。  残されたのは木々一人とどことなく据わりの悪い空気である。去っていく兵士の背を見送る彼女の姿がどうにも好ましく思えず、ミツヒデは気付くと窓を飛び越えていた。あ、と自分の行動に自覚が伴ったのは一拍後で、動揺も相まってうっかり着地によろける。 「――ぶっ」  そのまま茂みに突っ込んだ。 「……何してるの」 「…………いや…………」  暗がりを差し引いてもそうそう見誤るものではない。ひどい体たらくに自分でげんなりしながら、ミツヒデは上手い言い訳も思いつかず黙って衣服をぱたぱたとやる。 「……木々こそどうしたんだ、こんな遅くに」 「別に。散歩」 「一人か?」 「あんたまさか本気で逢い引きとか言ってたわけ」  木々がミツヒデの肩にこびりついた葉を払う。口振りとは裏腹にその手つきは柔らかく、その接触をあまりに自然になされたミツヒデはいよいよ気が気でない。 「危ないだろ。こんな時間に丸腰で」 「敷地からは出ないよ。丸腰で危ないっていうのも一国の城としてどうかと思うけど」 「……いや、まあ、言葉のあやというか、危なくはなくても感心できないって話をだな」 「あんた私の父親?」 「父……」  その発言はいろいろと問題である。  違うだろと真っ当に突っ込むべきか心外だと怒るべきか判断に困ってしまい、ミツヒデは結局、そういう問題じゃないと話がすり替わることを阻止した。 「せめて何か羽織るとかな」 「動きづらい」 「いや、動き回るなって」  オビじゃあるまいし、とぼやくと木々がちらとミツヒデを見上げた。その瞳がなにか推し量るような色をしていて、下心というか、下心ありきの心配を見透かされているようでどうにも居たたまれない。 「……なんだ」 「……別に。あんたの心配の種類もなんとなく読めてきたけど、今さら、私をそんな目で見る物好きなんているかな」  お見通しであった。  ただでさえばつの悪いミツヒデに、特にこの城で、と木々は絶妙に切り返しづらいところをついてくる。たしかに彼女はこの城では一人の女性である前に一人の剣士だ。そういう形で彼女を尊重する人間が多いことも知っているし、その事実を彼女が誠実に受け止めていることも知っている。  けれど彼女はわかっていない。  日頃無邪気なまでの敬意を払う兵士も、ここで図星をつかれている自分も、同志であると同時に一人の男なのだ。 「――俺とか」 「寝言は寝て言ったら」  まったくもってわかっていない。  やれやれと嘆息するミツヒデの頬を夜風がいたずらに掠めていく。同じ風に彼女の髪がふわと吹かれ、湯浴みの名残りか、柔らかい香りが鼻孔をくすぐってまた気が滅入った。 「あのなあ、木々」  と、ふいに伸ばされた彼女の手がミツヒデの眼前に迫る。  思わず身を引かせてしまったミツヒデである。その反応に面倒臭そうな顔をした木々が、今度は否応なしに両手でミツヒデの頭を押さえ込んでしまう。  うお、と間抜けた声を出して前傾姿勢を余儀なくされた。肩口に頭をホールドされた形である。  ふわりと体温が間近に漂う。先まで掠める程度だった柔らかな香りが色濃さを増し、それどころか甘味すら伴っているように思えて、ミツヒデは地雷を踏む形で混乱を極めた。 「――ちょっ」 「何かついてる」 「違っ、いや、木々!」 「うるさい。じっとして」  柔らかい指先がミツヒデの髪を探る。ほぼほぼ抱き込まれていると言って差し支えない体勢で、ミツヒデは情けないことに言われた通り大人しくするほかない。  狭い視界の中、やり場に困った視線が白い首筋から華奢な肩口、鎖骨、胸元、と下世話なラインを辿って下りてゆく。無意識を自覚したのは鎖骨のあたりで、慌てて目を逸らしながら、男ってほんとうに馬鹿だな、とミツヒデは落胆した。 「……まだか、木々」 「もう少し。あんまり喋らないでくれる」  くすぐったいと言って木々が身を捩らせる。  勘弁してほしかった。  脈打つ鼓動のおかげで呼吸ひとつにすら緊張していた。身体中の血温が上昇し、余裕のない血液が頭にまでのぼりそうで自分でも油断ならない。まずい、とミツヒデは慎重に唾を飲み込む。  なにも初心をこじらせて緊張しているわけではないのだ。少しでも気を緩めてしまえば、この両手が力任せに彼女の身体を引き寄せてしまいそうで。 「……」  途方もない沈黙が続く。おそらく数秒も経っていない。  先ほど彼女はミツヒデの心配を読めたと言ってあしらった。読めているわりには何もわかっていないではないか、とミツヒデはよっぽど抗議してやりたかった。  おそらく理解はしていても実感が伴っていないのだろう。  だとすれば理解していないよりも厄介だ。  ミツヒデはゆっくりと息を吸う。  この白い首筋に舌でも這わせてやれば少しくらいはわかってくれるだろうか。男心など知りようもないだろうが、せめて、他人事の危機感に少しでもいいから実感を添えてやりたい。今後こうして男との距離を無闇に詰めることのなくなるように。  そこまで考えて、ミツヒデは脱力するように息を吐き出した。答えは簡単だ。間違いなく斬られる。  怒られて済むならまだいい。最悪傷付ける可能性があった。それだけは、とミツヒデの欲望にあっけなくブレーキがかかる。  げんなりしているとようやく頭が解放された。  取れたと言って木々が見知らぬ形の、おそらく何かしらの種をミツヒデに見せる。 「やけに取りづらかったけど。まさか育ててるわけじゃないよね」 「あのな……。そういう植物なんだろ。そうやって種を遠くに落とすって話を聞いたことがある」 「へえ。だとしたらあんたも飛び降りる場所選んだほうがいいね」  人の気も知らずにのたまってくれる。  本日何度目か、ミツヒデは彼女に気付かれぬよう息をつき、オビたちには言うなよとかろうじて笑った。 「あと散歩ついてっていいか」 「もう戻る」 「……ああ、じゃあ、送るよ」  それは何より、という言葉を飲み込み、かわりに絞り出した言葉に木々は胡散臭そうな顔をした。たしかに送るも何も普通に一緒に戻ることになる。少なくともそれを上手いこと取り繕えぬくらいにはミツヒデは消耗していた。  爽やかな月夜にとんだ問答である。おそらく寝付けないだろうな、とミツヒデはひとり、まだ終わりそうにない苦悩に辟易していた。
(2014/08/31)
過去サイトの記念リクエスト「相変わらずな木々に振り回される過保護なミツヒデ」
木々嬢の相変わらずというのが人によって違いそうで難しくて、じゃあ旦那から考えようとなって書いたら茂みに突っ込む旦那がいました。毎度申し訳ないとは思ってます。

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