ヒナゲシの憂色
控えめなノックが聞こえて、こんな時間にとミツヒデは首をかしげながら腰を上げた。
時刻は夜の十時を回った頃だ。私室への来訪となれば緊急の何かかオビか、やや警戒しながらドアを引いたミツヒデは、そこに立つ人物とその姿にいっとき言葉をなくした。
「木々」
木々は黙ったまま目も合わせない。
見るからに穏便ではない。下ろされた髪はところどころほつれ、それよりも目立つのは頬の赤い痕だ。彼女が人に殴られるなど滅多なことではない。その髪もその瞳もどこかくすんでいるように見えた。いつだって強い光を失くさぬあの瞳が。
何を言うべきか、何を訊くべきかわからず、ミツヒデはひとまず細い腕を取って部屋に引き込んだ。木々は抵抗する様子も見せない。掴んだ手首にすらろくな力が感じられず、今の彼女は怖いほどにうつろだった。
「木々、これは」
何があったと問いただすより先に木々が動いた。胸倉を掴むようにして伸び上がり、荒々しくミツヒデの唇を奪う。彼女の体を受け止めそこねたミツヒデは壁に背中をぶつけた。
またか、とミツヒデは彼女の心を思ってひどく気が滅入った。彼女の胸中など到底理解してやれないが、少なくともミツヒデのそれよりもずっと沈鬱している。腫れた頬などよりもずっと痛がっている。
ミツヒデは痩躯を支えるように腕を回した。体と唇とをさらに密着させて、うつろなキスの合間から舌を差し入れる。
「ん……」
木々はわずかに身を捩らせたが拒絶の色はなく、かといって積極的に応えるというわけでもなかった。いつも意図的に抑えられる声はそれよりずっと甘やかだったが、どういうわけか虚しい。
息苦しさに負けて唇を離すと、木々は感情の見えない顔でそっと踵を下ろした。見えないというより、たぶん殺されているのだ。空っぽの感情。ミツヒデは乱れた髪を指先で梳きながら、ともすれば険しさの滲んでしまいそうな目元を取り繕う。
「手当てしなきゃな、これ」
ミツヒデはどうにか微笑んだ。痕に触れぬよう慎重に頬を撫でて、木々の視線を捕らえようと顔を覗き込む。けれど木々はミツヒデの言葉と行動と、その両方に首を振った。ひどく力ない動作だった。
ミツヒデはそっと息をついて、あやすように彼女の頭を撫でる。それもそうかと思った。彼女が痛がっているのは、おそらく、そんなところではない。
「……風呂いくんだろ、木々、待ってるよ」
木々はゆっくりと踵を返した。結局一度も目は合わないままで、ミツヒデは暗澹たる思いでしばらくその場を動かなかった。
***
行為の最中、木々は固く目を閉じていた。時折開かれる瞳は、けれどうつろな感情を映すばかりでミツヒデに向けられることはない。
戦う身であることも、護る身であることも、木々にとってはひどく生きづらい選択なのだと思う。頭の良い彼女のことだからきっと自分でもそうとわかっていて、それでもこの道を選んだ。
生きづらいというのはもちろん彼女が女であるがゆえで、けれど木々は上手く折り合いをつけていた。自身が女であることも男の力を持てぬことも甘受し、その上で男とは違う力を身に付ける。彼女の口から男に生まれたらという言葉を聞いたことはなかった。そんなことを思っていないであろうことも知っている。木々は女であることにも剣士であることにもその強さにも、ひっくるめて言えば木々が木々であることに誇りを持っていた。そういう強さを持つ人だ。
けれど。
(脆い)
時おり、こうして、折れる。
女であることを踏み躙られ、それとなく機嫌が悪かったり、いつもより辛辣にミツヒデに当たったり、一人で稽古に打ち込んで手の豆を潰したり、それくらいならまだいい。最悪なのはこうして、自棄になった時だ。
どんな感情が働くのかミツヒデにはわからない。理解してやることなど到底できない。けれど、たぶん、嫌気が差すのだろう。
木々はいつもこうしてミツヒデを求めた。捌け口を見失い、自分が女であることを嫌というほど自分に知らしめて、わざと自分を傷つける。少なくともミツヒデにはそう見えた。
「……木々」
いつも抱いてやるしかできない。肌に触れ、その細さに胸を痛め、遠回しな自傷に手を添えることでしか支えてやれぬ自分に歯噛みする。いっそ泣かせてやれたらよかった。普段の行為とは違い、きつく目を閉じ唇を噛み締める木々を、ミツヒデは幾度も呼びながら掻き抱いた。
「木々……っ」
穿つ動きにあわせて彼女の声が溢れ出る。余裕をなくした手がシーツに縋り、ミツヒデはその手を開かせて自身のそれを絡めた。あえぐ声。湿った吐息。口付けを迷って、無意味だと思い直して、無性に泣きたくなった。
木々が息を詰める。高ぶった体を容赦なく責め立てられて、やがて彼女はかすれた悲鳴を上げて達した。絡めた指先に力がこもる。絶頂に震え、絡みつく内壁がミツヒデの吐精を誘う。抗う気も起きなかった。
そのまま寝台に沈んだ彼女に、ミツヒデはそろりとくちづける。
緩慢に瞬いた瞳がようやくミツヒデを捉えた。おはよう、とミツヒデは苦笑する。
「気は晴れたか?」
「……ごめん」
絶頂の名残でぼんやりしながら、木々はその一言だけを口にした。いつものことだ。
ミツヒデはゆっくりと身を起こした。剥き出しの肩が寒々しく、シーツをかけながら水でも飲むかと聞いたがいらないと返されたので、後始末だけして彼女のとなりに潜り込む。肌を掠めるように、ちいさなため息が聞こえた。
「大丈夫か」
「平気。ごめん、気が立ってて、よく覚えてない」
「ああ、まあ、一種の防衛本能だろうな。気にするな」
気にするなというのも無理な話である。ミツヒデは自分の言葉の薄っぺらさに苦笑して、細い髪をさらさらとくしけずった。
「何があった?」
これだけの状況だ。聞かぬわけにはいかない。
さすがに黙秘が通用しないことは理解しているようで、木々は諦めたように口を開いた。
「……負けて殴られた」
「……うん?」
逆ではなく。
戸惑うミツヒデに木々が小さく頷く。声に少しずつ温度が見え始めたことがせめてもの救いだった。
「手合わせの相手を頼まれて……勝ったら頼みがあるって言うから、賭けか、だれかへの口利きかと思って」
なるほど、とミツヒデはやっと話が見えてきた。
一見取っつきにくく見えるが、彼女は身内のこととなると存外乗りが良い。賭けには乗るしゲームにも混ざれば仲間内の悪戯に一役買ったりもする。彼女にとって手合わせなどその一環に過ぎなかったのだろう。この城の兵たちが軒並み気のいいこともおそらく原因のひとつだ。
けれど彼女は珍しく見誤った。
「髪を掴まれて、剣も弾かれて」
負けた、と木々は静かに告げる。ミツヒデからすればそれは敗北とは言わない。というより勝負ですらない。ただの悪意だ。
「それでも頼まれることがまともだったらまだ許せたかもしれない。軽蔑はするけど」
「違ったのか」
「殴らせろって」
ミツヒデは顔をしかめた。
彼女が何か恨みを買ったとは思えない。木々が女であるというだけで生まれた、理不尽な敵意だ。それは妬みであったり、劣等感であったり、あるいは恐れであったり、そういうものが入り混じって凶暴な攻撃性となりうる。人間の怖さだ。
「自衛もできない女が何の役に立つのかって言われた。何て答えたか覚えてない」
「……そうか」
「気づいたらここにいた。一発しか殴られてないのもさっき気づいた。馬鹿みたい、何発殴っても何しても変わらないのに。相手は女なんだし」
「木々」
もういいと、ミツヒデは息を吐きながら言った。普段はこんなに喋らないくせに。似合わぬ口数の多さが余計にやるせない。
「わかった。もういい。充分だ。だけどおまえはなんでそうわざわざ自分を傷付けるような言い方を」
「別に……」
木々はミツヒデの首元に額を押し付ける。さらりと流れる髪が腕をくすぐり、その美しさが今だけは目に痛い。
「言ったでしょ。気が立ってただけ。もういい」
「……泣いてもいいぞ」
「泣かない」
知っている。彼女はこのことでは絶対に泣かない。女であることに間違っても涙を流さないのが、木々が木々であることの矜持なのだろう。
「……だけど、相棒があんたがでよかった」
「そこはあえて相棒なのか」
「ありがとうのかわり」
「まったく……」
わかりづらいと言って苦笑すると、つられて笑ったかのような吐息が触れた。ミツヒデはようやく胸を撫で下ろした。
その言葉が数少ない木々の本心であることを知っている。彼女の拠り所はいつだって自分たちだ。そこに性別などなく、ゼンは他ならぬ木々の力を必要としていたし、ミツヒデだって。
「……俺だって、おまえが隣にいることに感謝してるんだからな」
木々は知ってると呟いて、身を寄せたままそっと目を閉じた。
こうして擦りきれたように眠る彼女を見なくて済むいつかを、ミツヒデは切に願う。まだ手探りでしか彼女を支えてやることはできない。寄り添うことは正解なのだろうか。抱きしめてやることは正解なのだろうか。手を伸ばす彼女を、そのまま受け入れてしまうことは。
違うな、とミツヒデは自嘲した。すべて欺瞞だ。正解などないことはとうに知っていて、それでも傷つく彼女のそばにいたいだけだった。
(2012/06/25)
書きたいのにうまく書けなくて一生懸命書いたけどどうにもならなかった感がすごい。というのを読み返すたびに感じる作品なんですが当時いやに評判がよかった記憶があります。何年かあとに書いたらうまく書けてたのかもしれない。関係ないかもしれない。