ひとりぼっちの羊飼い
 その感情をどうにか言葉にするとすれば、もどかしい、という表現がいちばん近い。内側にくすぶる鬱屈した感情を、どうしてそうも上手く閉じ込めてしまえるのだろう。  一度そんな話をした時、ミツヒデはきょとんとした後に苦笑を滲ませた。たぶん嬉しかったのだと思う。木々がそうやって彼のことを心配することは滅多になかったし、彼自身扱いに困っているものではあったのだろう。そして同時に見せた苦味は何かと言うと、ミツヒデの台詞がすべてを物語っていた。おまえが言うか、と。  それもそうかと木々も納得してしまった。そんな取り留めのない記憶が蘇った。  木々は目下ミツヒデの部屋に忍び込んでいる。言い方は悪いが決してやましいことがあるわけではない。  仕事上がりにミツヒデと書庫に寄り、目を通しておくべき資料をいくつか借り出した。彼が先にいいぞと言うので木々が先に目を通す流れとなり、後で部屋に届けてくれとミツヒデが自室に戻ったのが二時間ほど前の話である。  言われた通り資料を渡しにきた。ノックをしたが応答はなく、鍵は開いていたので失礼させてもらったという、そういう次第だ。  明かりは消えている。暗がりの中足元に注意しながら進み、途中ぶつかったテーブルにひとまず資料を置いた。闇に慣れてきた目を凝らすが、視界のどこにも彼の姿はない。 「ミツヒデ?」  寝ているのか。さらに足を進めて寝室を覗き込むと、果たしてそこに横たわる彼の姿があった。  ひどく無造作な寝姿だ。仰向けに倒れ込んだかのような体勢で、目元を腕で覆っている。嫌な感じがした。木々はそっと足を忍ばせて近づく。  ここしばらく剣を振るうことが続いた。ゼンの視察先でやみくもな奇襲を受けたり、国境付近の領の逆賊が城を囲んだりで兵たちもそれなりに疲弊している。それは木々も同じで、だとしたらミツヒデも例外ではない。  けれどこの男、平時ではそんなことをおくびにも出さないのだ。 「ミツヒデ」  寝かせておいてやりたいのも山々だが、資料の存在だけでも伝えておかねばならない。一応仕事だ。  控えめな呼び掛けとともに手を伸ばす。そもそもこの男が他人の気配で目を覚まさないという時点でおかしい。やはり疲れているのだろう。  しかし木々の手が肩に触れるより先に、弾かれたようにミツヒデが飛び起きた。 「――ッ!」 「い……!」  捕まれた腕がぎしりと痛む。咄嗟に引き抜こうとするとさらに指が食い込んだ。防衛本能に加えて寝起きということもあってか、どうやら力加減という概念がきれいに飛んでいるらしい。瞳孔の開いた瞳には剥き出しの敵意すら見えた。おそらく上手く寝付けないのだろう、痛いやら痛ましいやらで木々は顔を歪めた。 「ミツヒデ!」 「え、あ、あれ、木々……?」 「おはよう。起こしたのは悪いけど、離して。痛い」  悪い、と彼が慌てて手を離す。じわりと指先に血の通う感覚。痕になってないか、と問うミツヒデはやや居づらそうで、そんな態度を取られては木々のほうもやりづらい。 「……資料、置いといたけど、明日にしたら。寝たほうがいいと思う。それじゃあ」  さっさと戻ったほうがいいと判断して、木々は最低限の言葉だけをかけて身を翻した。あんな目で射竦められてはさしもの木々も平常心でいられない。  ところが再び腕を捕まれた。先ほどよりいくらか控えめな力である。 「――何」 「あ」  仕方なく振り返ると、ミツヒデのほうも思わずという顔をしていた。咄嗟に出た手だったのだろう、そのくせ離す様子はない。  木々は静かに息を吐くと、諦めてベッドの縁に腰を下ろした。 「……眠れてないの、最近」 「あー、いや、なんというか、まあ」  まるきり意味をなさない言葉を一通り吐いて、ミツヒデは困ったような顔をした。歯切れの悪さといいその表情といい、どうにも彼らしくなくて扱いに困る。 「寝てはいるんだが、寝付きも悪いし、寝が浅くてだな」 「だろうね」 「まあ、普通に寝不足だ」  ははは、と軽く笑う。普段通りに笑ったつもりなのかもしれないが、だとしたら失敗だ。誤魔化すにしては不自然を隠しきれていないし、何より相手を間違えている。 「人を斬ったから?」 「……あー」  核心をつく。見逃すまいと、木々はひたとミツヒデを見据えた。  ミツヒデは少しのあいだ表情に迷い、やがて誤魔化すのをやめた。腕を掴んだままだった手がそろりと木々の手をたぐる。どうやら甘えたいらしい。訊いた手前あしらうのも薄情な気がして、させたいようにさせておくことにした。 「いつもじゃないんだ。ただ、今回は結構な数だったからな……いや、うーん、なんていうか、後悔はないんだが、それも含めて後ろめたいというか」 「うん」 「情けないかな、俺」 「さあ……、でもいいんじゃない、それくらいで」  何もかも正当化なんてできない、と木々は目を伏せる。  人を護ること、人を死なせること、そのふたつはどういうわけかひどく近いところにあって、その違いを考えたところで答えはなく救いもない。増えるのは重圧ばかりで、そうしてそれは体力も気力も容赦なく食いつぶしていく。今の彼のように。  それでも剣を取る。主人のために、同胞のために、そうやって誇れる居場所のために、自分たちは剣を振るうのだ。 「だいたい冷徹ぶられてもやりづらいし」 「冷徹って」  なれるか、と彼が言う。なれないだろうな、と木々も頷く。頭を打ったかと心配されるのが落ちだ。 「情けないくらいでいいんじゃないの、迷いさえなければ」 「木々……」 「しっかりしてよ、相棒」  葛藤があるのは木々だって同じだ。人を知り、命を知り、そのたび血濡れた身は重たくなっていく。けれどその葛藤は剣を取る身として決してなくしてはいけないものだ。  相棒か、と彼がつぶやく。  そうだよな、と彼は笑った。  不思議だった。彼はたしかに笑っている。けれど木々には一瞬、目の前の男が泣き出しそうに見えたのだ。 「さすがは俺の相棒。惚れ直しそうだ」 「……あんた、落ち込んでたんじゃないの」 「木々が慰めてくれたから元気になった」  慰めてないと返したがミツヒデは何も言わずに笑っている。  いまだ遊ばれたままの指先を引き抜こうとすると、どういうつもりかむしろ掴まれた。睨みつけるとミツヒデがじんわり眉尻を下げる。ずるい、と木々は苦虫を噛み潰した。そんな顔をされてはあしらうにあしらえない。 「もう少し甘えさせてくれてもいいだろ」 「甘やかした覚えはないけど」  木々は諦めて指先の攻防をやめた。 「添い寝でもすればいいわけ?」 「あ、してくれるのか?」 「貸し二つくらいかな」 「ああ、それは」  破格だなと寝ぼけたことを言う。次の瞬間には木々の体を引き寄せる動作とベッドに横たわる動作を一息にこなすわけで、この男、本当に油断ならない。 「木々も寝ろよー」 「うなされる人間の横で熟睡できる神経は持ち合わせてない」 「心配するなって、これならちゃんと眠れそうだからな」  うなされるのを前提にするな、とミツヒデが笑う。その声は普段通りにも聞こえた。それはそれで本音が見えないのだ、と木々は落胆して、窮屈な腕の中でどうにか落ち着く体勢を探す。 「……白雪に相談したほうが早かった気がする」 「それはなんか、こう……情けないだろ」 「私はいいわけ」 「そりゃな」  相棒だろ、と。ミツヒデは目を閉じる。  しばらく彼は木々の背を優しいリズムで叩いていた。まるで幼子を寝かしつけるよう。逆では、と木々を呆れさせて、けれどそれも束の間、やがて穏やかな寝息が聞こえてきた。安堵と同時にとろりとした重みが瞼にのしかかってくる。  少しだけ眠ろう、と木々は目を閉じる。彼につられて訪れた微睡みはたしかに久方ぶりに穏やかなもので、ほどなく木々の意識も沈んでいった。

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