下弦に満ちる
内緒話のようなひそひそ声が風に紛れ、かと思うとささやかな笑い声が弾ける。その空間の優しさにミツヒデは相棒と顔を見合わせて笑った。
見上げた部屋は女性部屋にとあてがわれた部屋である。隣の女剣士は邪魔にならずに済むタイミングまで部屋に戻る気はないだろう。ならば時間潰しにでもと、ミツヒデは木々を散歩に誘った。
「ゼンのそば離れて平気かな」
「平気だろ。下でまだ大将たち騒いでるしな」
白雪の父親であるという頭領を筆頭に、山の獅子たちに対してミツヒデはすっかり気を許していた。騒動の原因となった件についても和解したと聞いている。印象で言えば白雪の父親の登場という衝撃にほとんど持っていかれた形だが、ゼンが気を許した時点でおおかたの心配も不要と化した。
警戒を解いたという点では木々も同様らしい。それもそうかと彼女が頷いたのをきっかけに、二人は小屋とは反対方向に歩き始める。
「それにしても良かったよなー、死人もなく損害もなく」
「まあね、王子が揃い踏みしただけのことはある」
「うちの主人は怒るとこれだからなあ。まあ白雪が無事で何より何より」
度重なる主人の脱走やら何やらで山の空気も吸い慣れているが、国境を越えたところとなるとやはりどこか新鮮だった。何気なく空を仰ぐと星が近い。いい場所だねと明日白雪に話そうと決めて、ふっつり黙り込んだ相棒に視線をやる。
白雪は無事だった。それは今回の一件において何よりの成果だったが、木々だけはその結末を消化しきれていないらしい。
「……白雪がな、気にしてたぞ」
「何が」
「頬の傷のこと、木々が気にしてるんじゃないかって」
ぴたりと木々の足が止まった。やはり図星か。
顔を覗き込もうとすると、それより先に鋭い眼光で睨まれた。余計なお世話だとでも言いたげで、そこまで強情にならずとも、とミツヒデは呆れてしまう。
「そんな意地になることか?」
「うるさいな」
ミツヒデの言葉を撥ねつけて、木々は先を行く。なかなか感情が表に出ない損な性分だ。前方の背中を眺めながら、彼女がかたくなに見せようとしない感情について考える。まず自分に腹を立てているのは間違いないだろうが。
「木々」
一歩踏み出す。続けて二歩、三歩。歩幅の差が出て五歩目で追い付いた。足を止め、何、と鬱陶しそうに見上げる彼女に笑って、白雪にもそうしたように優しく頭に触れる。
「そう落ち込むな」
「別に」
落ち込んでない、とまだ強がる。あるいは木々自身、それが落ち込んでいるのだということに気づいていないのかもしれない。彼女の性格からして充分にありえた。
「あれは木々のせいじゃないんだろ? 白雪もそう言ってた」
「そんなの……、そう言うに決まってる」
白雪は優しいから。やや疲れの滲む声である。
ミツヒデは苦笑して、意固地な頭をゆるく撫でてやった。
「木々も優しいからなあ。とりわけ白雪に対しては」
「あのさ」
息をついた木々がさりげなくミツヒデの手を避けた。違うから、と彼女の声はどこか焦れているようにも聞こえる。
「さっきも言ったけど別に落ち込んでないから。まして優しさでもない」
「だけど気にしてるんだろ」
「あれは」
油断していたのだと木々は言った。
「奴らにとって白雪は商品で、まさか傷をつけるような真似はしないだろうってたかをくくってたの」
「だからって防げたことか?」
「さあね。だけど怪我した白雪が戻ってきた時、油断してた自分にぞっとしたよ。あれくらいの怪我で済んでよかった」
どうにも入り込む余地がない。彼女の感情はそれで完結してしまっているのだ。
けれどそれだって人は優しさと呼ぶ。かねてより彼女は自分の感情の捉え方に若干の難があった。ミツヒデが指した優しさとは形こそ違うかもしれないが、人に怪我をさせたくない、人を心配する、その感情を優しいと表現して何がおかしい。
「……木々は鈍いからなあ」
思わず本音が口をついて出た。彼女の彼女自身に対する無頓着ぶりは、時折どうにも危なっかしい。
「……何が言いたいわけ」
「それは優しさだし、おまえは落ち込んでるよ」
「勝手に決めつけないでくれる」
「それになあ」
木々が眉を顰める。ミツヒデは気付かぬふりをした。
ぞっとした、と彼女は言った。けれどそれは白雪を守るための言葉だった。本来そこには白雪だけでなく木々のそれも含まれるはずなのに、彼女の意識からはどういうわけか一人分の安全が抜けている。
「自分の身の不安とかなかったのか? 白雪がどうとかじゃなくて、もっと何かあるだろ」
「ないよ。そもそも私が言い出したことでしょ」
そうだが、とミツヒデは口を曲げる。そうだけどそうじゃない。
単身で敵陣に乗り込んだのは確かに木々の意思だ。それもミツヒデの反対を強固に押し切って。けれどそれと危機感とは別の話だ。木々の感情はいつも前提に理屈が存在して、だからこういう話をすると大抵噛み合わない。
「木々のそういうところがいつも心配だよ、俺は」
「はいはい」
「流すなって……」
「あんたの言いたいこともわかるけど、私だってあの時は商品だったんだよ」
だから手を出される心配はなかったということか。ならば白雪が傷つけられた時点で自身に迫る危機にももっと敏感になるべきだろう。
相手は海賊だ。おまけに木々は自覚が足りない。彼女ほどの女が売り飛ばされてきたら、少しくらいと不埒を働く男がいてもおかしくない。
改めてミツヒデはぞっとした。いつだって木々はミツヒデの心配を過保護だとあしらい、その一種の無防備さが余計に不安を煽る。彼女の腕を疑うつもりはないが、有り得たもしもがこびりついて離れない。本当に何もなかったのか。本当に何もされなかったのか。
沸き立つ不安と焦燥を持て余し、唐突とわかっていながら、ミツヒデは突き動かされるままに木々の腕を引いた。
「……ちょっと」
華奢な体に覆い被さるようにして腕を回す。木々は不満げな声を上げたが、構わずに痩躯を抱き寄せた。
「……あんたは私を慰めたいわけ、それとも慰めてほしいわけ」
「落ち込んでないんだろ」
「ミツヒデが落ち込んでるって言ったんでしょ」
じゃあ両方、と駄々をこねると諦めたような溜め息が聞こえた。狭い隙間を縫って自由を得た手が、とんとんとミツヒデの背中を叩く。
「ちゃんと不安だったよ」
「ちゃんとってな……」
「ミツヒデが、私がいないからって動揺して、何かヘマするんじゃないかって」
これだ。わざと的の外れた返答を寄越して、またこうしてはぐらかされるのだろう。
何か言いかけて、けれどその前に木々の手が動きを変えた。子どもをあやすかのようだったそれが、指先をミツヒデの衣服に引っ掛けるようにして落ち着く。
「……私の心配はあんたがしてくれたんでしょ」
それもやや身を預けるようにして。
「だからその分私が白雪の心配をしただけ。実際私の背中守ってくれたわけだし」
「……それは、俺だからこそって意味で解釈するぞ」
「好きにしなよ。そもそも剣を預けられるほどの相手がいなかったら、あんな真似しない」
その仕草と言葉と、どうやら彼女なりに慰めてくれているらしかった。ミツヒデは深々と息を吐いて、重いと文句を言う彼女にも構わず体重をかける。
「……ほんとに何ともないんだな」
「ないよ」
「白雪が、傷のことは気にしないでくれって」
「聞いた」
「心配したんだ」
「うん」
「無事でよかった」
「……うん」
一歩間違えれば叶わなくなっていたであろう抱擁に、木々も一言文句を飛ばしただけで抵抗はしなかった。柔らかい感触がじんわり染み入るように安堵をもたらす。両方と言ったものの完全に慰められている有り様で、それでも形勢を変える気にはなれず、もう少しだけとぬくもりを欲張った。
(2012/07/15)