気むずかしがりやの爪の垢
 あ、という、彼女にしては珍しい声が上がり、振り返るとちょうど木々が消えたところだった。 「――え」 「えっ」 「は!?」  ミツヒデは二度見した。  すでに彼女の姿はない。  足場の悪い乱戦状態のさなか、それどころではないというのに一瞬の沈黙さえ流れたように思う。少なくともミツヒデの呼吸は止まった。呆然とする間もなく剣先が迫ったため息こそ吹き返したものの、消えるって一体、とミツヒデは状況がひとつも飲み込めない。というか現状誰ひとり飲み込めていない。 「――えっ、ちょっ、ええええ主! 主! 木々嬢落ちた!」 「見ればわかるわ! ミツヒデ!」  狼狽える二人の声が荒い。一方のミツヒデは動揺しすぎて逆に真顔だった。  つばぜり合って間合いを取って斬りつけてという騎士らしい作法などもはやどうでもよく、ミツヒデは眼前の賊党を蹴り倒して戦線を離脱する。素人もかくやという敵前逃亡であったがそれどころではない。 「オビ! 後頼む!」 「りょうか――って早っ」  足場の悪い山肌を駆ける。木々の落下した地点では男がひとり伸びていて、落ちるにしても片付けてから落ちるあたりが彼女らしい、とミツヒデは一種の呆れさえ覚えた。  崖というほどではない。足場の途絶えた急斜面くらいの地形で、下方でうずくまる木々も見たところ受け身は取れている。ミツヒデはひとまず胸を撫で下ろして、障害物の少ない斜面を選んで駆け下りた。 「木々! 大丈夫か」 「――ぬかった」 「ほんとにな。勘弁してくれ」  心臓に悪い、と枝葉にまみれた体を支え起こす。彼女の様子を見る限り大きな怪我もなさそうだ。髪にひっかかる枯葉を払ってやって、ミツヒデはようやくその身体から力を抜いた。 「まったく、肝が冷えたぞ……」 「いちいち大げさだよ。上は?」 「オビに任せた。言っとくけどな、俺だけじゃなくて二人とも相当うろたえてたからな」 「揃いも揃って……」  上方から、おそらく焦っているゼンの荒い太刀音が聞こえる。ほらな、と目で訴えると木々はばつの悪そうな顔をした。 「ひとまず説教はあとだ。立てるか?」  太刀音が止まない。相手の数は多くはなかったが、ゼンは木々のほうに気を取られているしオビはそんなゼンを気にかけながら戦わねばならない。いくらか苦戦していることも可能性としてはありえる。いずれにせよ早く戻ったほうが、とミツヒデが立ち上がったところでくんと服を引かれた。  木々である。  見下ろすと彼女がミツヒデの服を掴んでいる。何やら無言の訴えがあった。立たないな、とミツヒデはいやな予感がする。 「……木々?」 「…………くじいた」 「…………」  なるほど、とミツヒデの頭がじんわり痛む。  せり上がる苦言と心配と過保護その他をひとまず脇に置いて、ミツヒデは木々の前に屈み込んだ。 「先に言えって、それ」 「取り乱されても困るし」 「あのな……、まったく、大げさなんてどの口が」  どっちだ、と訊くと、左、と至極そっけない返答があった。ブーツごと慎重に左足を掬って、感覚はあるんだな、と念を押す。木々が声を詰まらせたので答えは明白だった。表に出さぬようにしているが、残念ながら、痛い、とその目元が訴えている。  ミツヒデは今いちど嘆息した。  腹を決める。彼女の膝裏と背中に腕を回して、患部に響かぬよう丁重に抱え上げた。怒られるか怒られないかで言えば十中八九どころか十怒られる状況だが、おとなしく彼女の怪我の悪化を待つわけにもいかない。  突然抱え上げられ、それも横抱きで、腕のなかの木々はきょとんとしている。 「――は?」  彼女にしては状況判断が遅い。らしくない表情にあれかわいい、と思考を沸かせていると、あっさり反撃を食らった。 「あいたたたたたむいってするなむいって」 「何のつもり。下ろして」  ぐいぐいと頬を押しやる木々の声はすこぶる温度が低い。照れ隠しの類いではなく本気で嫌がっている声だ。ミツヒデは首を反らせて木々の手をやりすごして、いやだって、とこちらもまっとうな主張を述べる。 「だって歩けないんだろ、木々」 「肩かしてもらえば歩ける」 「この斜面をか。そんなことしてたら陽が暮れ――いてててててわかったわかった下ろすって」  暴れるな、と結局根負けして木々を下ろした。そんなにいやか。  見るからに機嫌を損ねた木々に背を向け、ほら、とかがんで催促する。肩越しに振り返ると木々の視線はまだ険しい。 「おぶるくらいならいいだろ。早く戻らないと、ゼンたちだって相当心配してるぞ」 「……」  木々は露骨に嫌がっている。けれど聡明な彼女のことだ、片足を庇いながらこの斜面を上ることが現実的でないことくらいはとうに理解しているはずだった。何より急を要する。この非常事態、側近が主人の傍を離れるなど本来あってはならないことだ。  木々はしぶしぶといった体で立ち上がる。足取りが若干あやしい。 「……今後の戒めもかねて、背中、かりる」 「その言い方な……」  まあたしかに気をつけてくれ、と素直でない彼女の体を背中に受け止めた。  控えめに密着する体を支えて、両足に腕を回して立ち上がる。よいせ、と平衡を整えると木々の手がそっと肩に添えられた。  あ、まずい、とミツヒデの思考がぐらつく。  想定外の距離だ。 「……ぬかった」 「なに?」 「いや。足平気か?」 「痛いよ。だれかさんが触ったおかげで」 「木々だって俺が脱臼したときもっと容赦なかったろ……」 「応急処置」  ざくざくと不安定な足場を慎重に踏み分けながら、ミツヒデはできうる限り無心を心掛けて彼女との応酬を繰り広げていた。少しでも背中に神経を向けさせてはいけない、と本能が告げている。転ぶ予感しかしない。  そんなことだから、騒がしいはずの太刀音が止んでいたことにも、ミツヒデはすぐには気付けなかった。  あれ、と思ったのと同時くらいに、斜面の上方からオビの顔が顔を覗かせる。 「――ああ、大丈夫そうですよ主、木々嬢も生きてます」 「死ぬほど派手に落ちた覚えないんだけど」 「派手以前の問題だろ……」 「っていうか、うわー、旦那いいなー。俺が駆け付けてたら俺の役目だったのに、おんぶ」 「いいから手を貸せ、手を」 「はいはい」  斜面を上りきるとようやくゼンがほっとした顔を見せた。無事か、と安堵を滲ませる主人の無事も確認して、ミツヒデのほうも胸を撫で下ろす。  平気、と木々が応じる。平気も何もない体たらくではあるが、強情に関してはゼンも心得ているようで言及はしなかった。 「にしても旦那、役得はいいですけど、そこはおひめさまだっこでいきましょうよ。超貴公子が聞いて呆れますよ」 「いや、やろうにもおひめさまが強情――いって!」 「次そう呼んだら叩く」 「叩いてから言うな!」  おい帰るぞ、と一転して呆れ顔のゼンが声をかける。  足場を取るためにオビがさりげなく先行してくれた。無駄口さえなければ当てになる男なのに、とミツヒデは残念でならない。  当てにならぬ男はまだ口を閉じない。 「でもおんぶってのもまたオツですよねー。密着ぶりというか」 「他人事だからってな……」 「いやいやほんと、替わりたいくらいですって。あ、そこ窪み気をつけてください」  忠告通り足元を確かめて、それらしい窪みを見つけて避けて通ると、ひょいとオビが耳打ちをしてきた。 「――あたってます?」  なぜか殴られた。 「痛い! なんで俺を殴るんだ! 木々!」 「あててない」 「なんだ。ストイックなんだから、木々嬢ってば」 「シカトか!」 「おい、セクハラはいいから歩けおまえら」  言い方、とオビの声と重なった。木々は沈黙して我関せずを決め込んでいる。フォローのひとつくらいあってもいい。  ミツヒデは報われぬ応酬にぐったりしながら、それでもしっかりと足を運ぶ。背中の体温に思うところはひとつ、今夜寝付けるだろうか、というかなしい不安であった。
(2013/11/10)
過去サイトの記念リクエスト「怪我した木々をお姫様抱っこしようとするが結局おんぶになる旦那」
当時このリク読んで大笑いした記憶がある。広い背中に木々嬢がときめくみたいな少女漫画展開も予定してたはずなんですけど片鱗もなかったので旦那の殴られ損です。

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