たとえば風邪をこじらせた
 何故と冷静な自分が問う。答えなどないと愚かな自分が応じる。  理由、理屈、道理、それらを探し出したところで今さら意味を成さぬことをミツヒデは知っていて、よもや答えを得ようともしていなかった。まるで他人事の感情。そもそも言葉にできるならこんなことになっていない。  ならばきっかけはと問われるとそれも曖昧で、本当に何が引き金だったのかミツヒデにもわからない。けれど、わからないけれど、当然のように思っている自分もいた。理由もきっかけもひとつとしてなく、それでもいつかはこうなっていただろうと。  後ろめたさすらなかった。罪悪感も、躊躇いも戸惑いも。  彼女にとっては残酷だったかもしれない。  ただ触れたかった。それだけだ。 「な」  に、とかろうじて発された言葉は、彼女のものにしては珍しく輪郭を失っていた。何に対する疑問なのか自分でも図りかねているのだろう。あるいは何が起きたか把握しきれていない。木々・セイランの滅多にない動揺を前に、そんなに驚かせたか、とミツヒデは苦笑した。 「びっくりしてるな、木々」 「……何、今の」  互いの顔はいまだ近いままだ。ひとけのない書庫、背後の本棚と眼前のミツヒデに逃げ道を塞がれ、それでも揺らがぬ瞳は流石としか言いようがない。普段通りのポーカーフェイス。手にした文献を取り落すこともなく、木々は静かにミツヒデを見据えている。  けれど、彼女はやはり動揺していた。彼女の聡明な頭なら、その台詞が一種の地雷となりうることに気付かぬはずがない。  たかがキスひとつで、彼女の心も、自分たちの関係も、あっけなく揺らいでいく。 「言っていいのか?」  途端に木々がばつの悪そうな顔をした。そのままゆっくりとかぶりを振る。彼女の手中で行き場をなくしている本を引き取りながら、意外だ、とミツヒデは顎を引かせた。 「怒るかと思った」 「怒られることした自覚あるの」 「一応な」 「ぬけぬけと……」 「だけど謝らないぞ」  引き取った文献を書棚に戻す。隙をつくことなどわけないだろうに、彼女は逃げることもせず目を伏せた。 「私はどう受け取ればいいわけ」 「聞くのか、それ。むしろおまえはどう答えてほしいんだ」 「さあ……」  なんとも無頓着なこたえである。問題も答えも曖昧なまま、ミツヒデがのらりくらりと躱すばかりで彼女も対応できないのだろう。掴めないのはお互いさまか、とミツヒデは彼女の頬に触れて視線を向けさせる。  けれどかち合った双眸に驚いた。  声や表情とはちぐはぐに、思い詰めたような瞳が。 「……木々?」 「……答えによっては、私はあんたを軽蔑する」 「……」 「相棒だの仲間だの、散々言ってきたのはミツヒデだよ」  確かにそうだ。そうやってブレーキをかけてきた。  長らくくすぶらせたまま、見て見ぬふりをしてきた感情がある。幸いミツヒデは大人で理性的でわきまえもあり、その感情を暴くことがどんな意味を持つのかどんな影響をもたらすのか、早い段階で理解し処理していた。したつもりでいた。  理性でどうこうできる代物ではなかったのだ。日ごと募る感情は焦燥にも似ていて、前にも後ろにも引けぬもどかしさが容赦なくミツヒデを煽る。本当は手を伸ばしたくて仕方なかった。本当はその思いもその深さも伝えてしまいたくて。  けれどこの関係をなくしてしまうことがひどく怖ろしかった。  同胞としての時間も、相棒としての距離感も、あまりに心地よかったから。 「相棒だとも仲間だとも本心からそう思ってたさ。だけど今のキスだって本心だ」 「……あんた、自分の言ってることわかってるの?」 「わかってるよ。おまえに向かう感情がひとつじゃなかった、それだけの話だ。気まぐれでも戯れでもない」  まさかそんな軽い気持ちで触れられるわけがない。  大事にしてきたつもりだ。彼女のことも、彼女とと時間も、彼女との関係も。  ミツヒデは木々の瞳をひたと見据えた。 「……俺のこの気持ちは、おまえへの裏切りか?」  まっすぐに問う。ここで拒絶されるようならさすがにもう退くつもりだった。けれど仮に拒絶されたとして、それは彼女の逃げ道であって本心ではないだろうという余裕も、どこかにあった。 「……わからない」  とらえたはずの視線が、つと逸らされる。  伏し目がちの瞳が今どんな感情を宿しているのかはわからない。受け流すでもなく、はぐらかすでもなく、思慮深い彼女にしては珍しい言葉で、ミツヒデは目を瞬かせた。 「珍しいな、おまえが」 「うるさいな」  どこかもどかしげな声である。日頃から流されぬ意思を持つ彼女にとって、はっきりと言語化しきれない感情を抱くことは一種の苛立ちに繋がるのだろう。そうさせているのが自分であるという事実を、ミツヒデは静かに考えていた。 「……もしあんたが、私をそういう風に扱う時がくるとしたら」 「うん?」 「私はもっと自分が傷つくと思ってた」  まるで独り言のような。  ぽつりと取り落とされた言葉は平坦で、木々らしいな、と感心していると、ふと彼女がミツヒデを見上げた。その瞳は迷いを映しながらもずいぶんしたたかで。 「あんたは私を裏切ったわけ」  静かだった。諦観も期待もなく、ただミツヒデの中にある事実だけを待っている。 「……おまえがどう受け取るかはともかく」 「うん」 「俺は、おまえを裏切ったつもりは少しもないよ」  本当はずっと、この感情を抱くことに後ろめたさがあった。女性としての木々を求めてしまえば、今までの関係や時間は嘘になってしまうのではないかと。  けれど、彼女への思いがどれほど強くなろうと、相棒として信頼する気持ちも、仲間として大事にしたい気持ちも、ひとつとしてなくなりはしなかった。はじめからあった関係がこれから先も生きていくとわかった。  そうとなれば手を伸ばすことに躊躇う理由がない。  彼女だってきっとわかっていたのだろう。 「……なら、いい」 「木々?」 「ミツヒデなんかに裏切られてなくてよかった」 「なんかとはなんだ、なんかとは」  ふ、と空気が緩んだ。  身を屈めるようにして距離を詰める。これまでの自分たちにとってはあまりに近い距離だ。けれど木々はそれを拒もうとはせず、ミツヒデはとうに腹を括った。 「俺も木々に軽蔑されたらどうしようかと思った」 「よく言うよ、開き直っておいて」 「……怒ってるか?」 「呆れてる」  腕を組んだ木々が息を吐くようにして笑う。あんたらしいけど、と続ける声はたしかに呆れていて、けれどどこか柔らかくもあってミツヒデに不思議な安堵をもたらした。変わらない、と知る。ひとつ関係の名前を変えて、けれど彼女も自分もきっと変わらずにいられる。 「なら、いちから口説き直すから、口説かれてくれるか」  唾を飲み込む。だからこそ緊張するのだ。  目をすがめた木々が、及第点、と言うのでミツヒデは苦笑した。 「手厳しいなあ」 「誠意が足りない」 「見せていいのか?」 「期待してるよ、超貴公子どの」  その言葉の意味を彼女はどこまで理解しているのだろう。あるいは試されているのか。どのみちミツヒデはほかの手が思い浮かばない。  頬に触れると、なに、と木々が笑う。  果たしてどこから口説き直すべきか。手に余る彼女への思いを抱えながら、ミツヒデは降参するように顔を寄せた。
(2012/09/03)

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