恋乞
ご一緒しますよとなぜかついてきたオビを携えて資料室に向かっていると、途中で見慣れた長身と見慣れぬメイドと遭遇した。
「あれえ、ミツヒデさん、何お仕事さぼって仲良くやってるんです」
「人聞き悪いこと言うな……」
隣のオビが資料を抱え直しながら声をかける。その台詞が皮肉であるなら木々はおおいに同感であった。仕事しろ。
「書類出しに行くところだったんだって」
「えー」
「あれ? そんなに信用ないか?」
「だって旦那が仕事中に女の子はべらせてるなんて初めて見たし」
「はべらせてどうする……」
というかはべらせてない、と半眼になりながら、ミツヒデは手中の小包を二人に示す。
「差し入れもらったんだよ、あとでみんなで頂こう」
「はい。皆さまでどうぞ」
柔らかく笑うメイドが、ふと目を伏せたさまを木々はたしかに見た。おそらくオビも同様であろう。どちらからともなく、口を挟むべきか挟まざるべきか、と顔を見合わせて挟みたくないというところで一致した。
無言のアイコンタクトをミツヒデが見咎める。
「なんだ、意味深だな。毒なんて入ってないぞ、たぶん。なあ」
「もう! ミツヒデ様!」
ミツヒデの軽口といい、彼女のたしなめ方といい、何やら仲睦まじげである。ミツヒデにしてはメイドに対して珍しい距離感で、二人はそこからひとつの結論を弾き出した。ですよね、と今度は答え合わせのような目くばせ。
「いやあ、俺たちは間に合ってますんで」
「ミツヒデがもらったんでしょ」
「いえ、ほんとうに、皆さまで召し上がってください」
気遣う彼女の頬がふわふわ染まっていく様子が、どうにもやりきれず木々は同情する。この男の不粋なまでの鈍さはどうにかしたほうがいい。
オビも同様の判断を下したようだった。旦那ってば野暮なんだから、と結局口を挟むことになっている。
「そちらの、かわいい彼女さんが、旦那のために作ったものでしょ」
「そっ」
そんなわけじゃ、といよいよ顔を赤くさせるメイドに、おお、とオビとともに新鮮な気分を味わった。ずいぶん初心、いや愛らしい反応である。
意表をつかれたミツヒデが隣でつられるように赤面していた。あんたのは別にいい、と木々は辟易している。
「いや、待ってくれ、その」
「……あー、と、俺たちこのへんで失礼しますねー」
気転を利かせた、というかおそらく木々と同じ理由で居たたまれなくなったオビが、ごゆっくり、と言い置いて木々を促す。書類を出すのにゆっくりされても困るのだが、口を挟む気にもなれず、木々は黙って立ち尽くす二人を通り過ぎた。
***
丸めた地図を留めながら先の光景を思い返す。並ぶふたり、おだやかな空間、可憐にはにかむ女とそれに目を取られる男。
さまになるかはともかく微笑ましい光景ではある。というか、彼らしい、と木々は彼を形づくるあらゆるものに思いを馳せた。人柄に表情、纏う空気、あの男にはああいう空間が、なんというかしっくりくる。
木々は息をついた。
なんだか気が散る。
「それにしても旦那、やっぱり隅に置けないもんですね」
踏み台を抱えたオビが、図ったようなタイミングで話を蒸し返した。
「いつの間にあんなかわいいメイドさんと」
「ミツヒデには勿体ないね」
「あー、ねー。旦那はあの鈍感さえなきゃなー」
そのまま彼は木々の肩口から覗き込むように顔を寄せてくる。
近い。木々は眉を顰めてオビを睨みつけた。
「気になりますか、木々嬢」
「別に。離れて」
「つれないですねえ」
あっさり身を引いたオビは、書架の前に踏み台を置いてまた戻ってきた。丸められた資料を適当に抱え上げて、だけど、と含んだように笑う。
「それじゃ傷心の木々嬢は俺が慰めるって方向でどうです」
「接続詞おかしいんじゃないの」
何が、だけど、だ。
彼が声に含ませた何かを探ろうとして、そうはいっても声だけでは真意など到底読めぬ男である。わからない。けれど挑発されているのはなんとなくわかる。面倒臭いな、と木々はその背を睨む。
丸めた資料を書架に戻すオビは、気配には聡いくせに振り向きもしない。
「違うんです?」
「傷心した覚えはない」
木々は残りの資料を抱え、オビの足元から資料を差し出した。彼は棚に手をついてじっと木々を見下ろしている。
なにか言いたげである。負けじと見つめ返すと、やおらオビの手が伸びて、資料に伸ばしたものと思っていたそれが当然のように木々の頬へと伸びてきた。
触れられる、と木々は息を呑む。
「――木々!」
そこに割って入った声と、大仰な扉の開け閉てにオビの手がぴくりと止まった。
振り返らずともわかる、わかるが一応振り返ってその姿を確認した。何やら剣呑な顔をしたミツヒデである。
「……趣味が悪いぞ、オビ」
「あらら、聞かれてました? 別に深い意味はありませんよ」
あってたまるか、と応じるミツヒデは珍しく余裕がない。オビはオビでいやそれ俺に失礼じゃないですかと調子を崩さず、その顔に張り付けた笑みをも崩さず、木々の腕から資料を搔っ攫っていった。何事もなかったかのように資料を片付け、何事もなかったかのように踏み台から飛び降りる。着地。
「それじゃ俺そろそろお嬢さんとこ戻るんで、木々嬢、あとお願いしていいですか」
「構わないけど」
「すいませんね。というわけで旦那、今度こそ退散しますんで、俺」
退散という名目にふさわしく、というかいつものことであるが、窓に飛び乗ったオビがそのまま木陰に姿を消した。
あとを任せられたところで残る作業は借り出しのラベルを処理するだけだ。気を遣われたのだろうか、とも思うがどちらに対する気遣いなのか判断しかねる。勘繰るだけ無駄と結論づけて木々はデスクに戻った。
「ゼンは?」
「木々たちのほう手伝ってこいって。お呼びじゃなかったみたいだが」
「まあね、もう終わる」
双方に含みがあったが双方素知らぬふりをした。木々はこの時点で、さっさと退場した男の真意が気遣いではなくいらぬお節介だったと知る。終わると言っているのにミツヒデに戻る素振りはなく、なんだというのだ、と木々は据わりが悪い。
「……彼女はいいわけ」
「彼女?」
「さっきの」
言葉少なに先刻擦れ違ったメイドを示唆すると、ああ、とミツヒデが腑抜けた反応を返した。
「なんだ、気になるか?」
「……」
木々は手を止めた。
悪意はないだろうが悪趣味な踏み込み方だ。先ほどそうやってオビを牽制したくせに、自分のこととなるとどうにも鈍い男である。
「……多少」
「え?」
「多少、癇には、障る」
途端にミツヒデが棒でも飲んだかのような顔をした。木々は彼を一瞥して、なにも言わずに作業に戻る。
距離感を勘違いしていたのかもしれない。自分と彼との。ミツヒデにとって誰より近いところにいると、そうありたいと願うでもなく、知らず思い込んでいた。だからこんなにもややこしい感情が頭をもたげるのだろう。それは執着とか焦燥とか、そういうものによく似ている。
不意に視界が翳った。
顔を上げると近い距離でミツヒデが木々を見下ろしている。緊張感を帯びた距離とは裏腹に、彼の表情はどこか締まりがない。
「……何」
「いや。やきもちか」
「妬いてどうするの」
木々はペンを置いて、ラベルをまとめながらむしろ呆れた。嫉妬など。そんな不合理な感情。
「ああやって赤くなったりも、あんたにあんな顔させるのも、私にはできないし」
嫉妬というより諦観に近い。あるいは羨望。いや羨望だと嫉妬か、と木々はその選択肢を取り下げる。この性分について今さらどうとも思いはしないが。
木々は勝手に話を終えたつもりになっていた。
しかしデスクから離れようとすると、それを阻むようにミツヒデがデスクに手をつく。何、と見上げると思いのほかまっすぐな眼差しとぶつかった。
「そういうの、やきもちって呼ばないか?」
「妬いてほしいわけ」
「いや、妬いてほしいというか……」
言いさしたミツヒデが言葉を選ぶようにして、やがてふと口許を緩めた。
「そうだな。妬いてほしいというか、そうだったらいいな、と」
「は?」
「あれ? 駄目か? 伝わらない?」
木々は目をすがめる。意味がわからぬほど鈍くはないが、今になって踏み込む彼の真意がわからず迂闊な切り返しができない。なぜ、と思う。なぜこれまで触れずにいた関係性を。
「俺は妬いたぞ」
けれど彼に躊躇はないらしい。
あまりに自然に白状されて危うく聞き流すところだった。聞き返す間もなくさらに距離を詰められ、反対側にまで手をつかれて、木々は呆気なく逃げ道をなくす。
「……あんた、さっきから、何の話してるの」
「いや? 何か知らんが誤解されてるし、気付いたら木々はオビに口説かれそうになってるし、木々は妬いてくれてるし俺も妬いてるし」
ミツヒデが身を屈めるようにして目線を合わせてきた。明らかに今までとは異なる距離感に慄いて、たまらず身を引かせた木々の腰にデスクがぶつかる。退路はない。なにより彼の双眸が逃すつもりはないと告げている。
遠慮はないのか、と木々は胸中で毒づいた。これまでの躊躇も葛藤も、木々との関係も勝手にぶち壊しにきている彼は、そのくせまっすぐで迷いなどない。抗いようがなかった。
「さっきの子とはそんなのじゃない。……まあ、なんだ、ちょっとした感情の食い違いはあったが」
さらりと残酷な言葉を吐いてツヒデは笑う。あんな一件などどうでもいいとばかりに。
「俺はずっと木々一筋だよ」
木々はいっとき言葉を失った。あんなに可愛らしい娘の思いを無下にした上で告げる言葉はこれで、相手もこれで、彼のものの基準はおそらくどうかしている。
この期に及んで赤くなりもしない頬に、ミツヒデの指先がゆるやかに触れた。
もとより優しい彼の瞳がさらに和らぐ瞬間を見た。それが己に向けられている事実を静かに考えながら、木々はようやく言葉を見つける。
「……物好きだね、あんたも」
彼も大概だが自分も大概だ。
物好きで結構、とミツヒデが臆面もなく言った。
「そういう木々だからかわいくて仕方ないんだ、おまえにはわからないだろうがな」
触れていた指先が頬を滑り、包むように大きな手のひらが添えられる。
彼が顔を寄せてきたので木々は思わず目を伏せた。どうにもむず痒い。けれどそれが表情に出ることはやはりなくて、この男がいいと言うのだからそれでいいのだろう、と木々は居直って口付けに応じた。
(2013/03/20)
過去サイトの記念リクエスト「二人がそういう関係になる日の話(木々嬢の嫉妬絡み)」
木々嬢の嫉妬なんて今でもハードル高いのでがんばったほう。モブ書くのは永遠に苦手です。