リトル・ロッテ
熱を持った唇にこたえながら木々は悩んでいる。
当初、いつ切り出すかと悩んでいたはずのそれは時間の経過とともに形を変えつつあった。果たして言うべきか。言わざるべきか。相手を考えると言うべきであろうことは明白で、つまり、告げるタイミングを逃したまま雪崩れ込むだけ雪崩れ込んでしまって、今さら、というそれがついて回るのだ。今さら話してどうなるのだろう。考えるたび黙り通すのも手だと諦めが頭をもたげるが、彼に向かう自分の感情を思うと、それはやはり不実な気もした。彼が自分に向けてくれている感情もわかっている。答えは結局同じところにたどり着く。話すべきだ。
そうして腹を決めては熱に篭絡されるという、どうしようもない体たらくだった。彼の指先が触れるだけで呼吸がおかしくなる。唇が触れるたびに肌がざわめいた。たぶんもう正常でない。
「――木々」
掠れた声で囁いたミツヒデが窺うように腰をなぞり、木々ははっとしてその手を掴んだ。掴んでからしまったと思い至る。それまでの熱っぽい空気が霧散して、いささか気まずそうな顔をしているミツヒデと目が合った。
「悪い。急だったか?」
木々は黙って首を振る。どう切り出すか決めあぐねているうちに、眼前の男はさらに神妙な顔をする。
「……こわいか?」
ああやっぱり、と木々は落胆した。やっぱりそう思われている。
ミツヒデがその手の配慮を怠らないことはわかっていた。火を見るより明らかだ。そういう気遣いと、気遣いを気遣いと思わせぬ優しさを持つ男だ。だからこそ自分から切り出そうと思っていたのに、結局この様だ。
目を伏せて、違う、と告げる。無理するなと畳み掛けてくることも充分に予想できたので、木々は間を空けずに話を続けた。
「初めてじゃない」
「え」
「むかし、やったことがある」
予想通り、あるいはそれを上回るほどのミツヒデの動揺が伝わってきた。え、ともう一度発声したきり何かを言う気配はない。どこから聞けばいいのか糸口を探しているのだろう。
伏せていた瞼をそろりと持ち上げると、けれど思いがけずまっすぐな瞳が木々を見つめていた。
「……それは、あれか? 俺より前にそういう人がいた?」
「いないよ」
「じゃあ」
ミツヒデの語気がかすかに強張る。
「誰かに、無理矢理?」
「違う。怒らなくていいから」
ここに来る前、と言うとミツヒデは明らかにほっとした表情を見せた。過保護なのか同情なのか、あるいは木々への執着なのか、彼の場合判断の難しいところである。
ミツヒデは黙って続きを待っている。けれど待たれたところで上手く話せる自信もなく、木々は今になって言葉を探した。どう話せば彼に伝わるのか、どう伝えれば彼が納得しやすいのか、考えれば考えるほど込み入ってくる。
「――兵団に身を置くってことは、ある意味、戦線に身を置くようなもので」
「ああ」
「そういう場所で、周りはほとんどが男で」
「……」
「間違っても生娘がいるような場所じゃない」
腕に自信はあった。頭の回りだって悪くはない。兵として城に仕えることに不足はないと思っていた。ただひとつ、性別だけを除いて。
木々は女だ。そればかりはどうしようもない。幸いこの国は逐一他国と衝突するような馬鹿な国ではなかったが、それでもいざという時、女であるこの身に何が起きてもおかしくはない。
「一度やったからどうってわけでもないけど、けじめも兼ねて」
「けじめって……」
「けじめだよ。女としてのね」
この道を選んだことを後悔したくなかった。女であることへの矜持も、剣士として生きる誇りも持っていたかった。きっと彼にはわからないだろう。そうしてそのことをミツヒデ自身もわかっている。彼は表情に困ったような顔をして、やがてくしゃりとその顔を歪ませた。
泣き出しそうな顔に見えた。
けれど確かめる間もなく、ミツヒデは木々の首元に顔を埋めてしまう。
「ミツヒデ?」
そのまま逞しい腕が回され、ぎゅうと体ごと拘束された。のしかかる体が重たい。
彼らしからぬ抱擁だった。持て余した感情の遣り場がわからず、途方に暮れ、人肌を求めて手を伸ばす。それはどこか泣き出しそうな子どもが母の首に縋り付くさまに似ていた。
「……なんであんたが泣いてるの」
「泣いてない」
くぐもった声が応じる。肌に触れる吐息がくすぐったい。
木々は彼がいつもそうしてくれるように、首に懐いたままの頭に手を伸ばした。存外やわらかい髪を遠慮がちに撫でる。彼は顔を上げない。
「おまえは強いよ」
「何、ていうかちょっと、痛い」
「強すぎて見てるこっちが苦しくなる」
「何……」
木々はミツヒデの言葉を反芻させる。苦しいなどと。ひどく愚かで優しい言葉だと思った。
「……あんたは、同調しすぎだよ。人の感傷に」
「悪いか」
「別に。ただ、そっちのほうが苦しそう」
けれどこの男らしいなと、少し可笑しくもあった。もしかすると人より損な性分をしていて、それでもその一言で済ませるような生き方はしていない。周りだって損だとは思っていない。その姿が羨ましかった。
「俺はいいんだよ。ただの性分だからな」
「何それ」
「木々はもっと楽に生きられたらいいのになあ」
独り言のように溢された言葉に、違いない、と木々は今度こそ笑った。
「そうすれば、あんたにも、もっと綺麗な体で抱かれたのにね」
自分にとって生きづらい道だとわかっていた。その道中に負ってきた傷ひとつにすら、剣士としての意味と、女としての意味と、矛盾ばかり抱えていつしか考えることも面倒になったけれど。
おそらく自分もたいがい損な性分をしていて、こんな自分に惚れたこの男もやはり損だ。例にもれずミツヒデはきっと損だなんて思っていないだろう。木々だって思っていない。
「……綺麗だろ。充分」
「そうかな」
ミツヒデの言葉は誠実だった。きっと本音だろう。そう言ってくれるだろうと思っていた。
彼は首元に引っ付いたままうなずく。迷わず肯定されて、髪の感触も、彼の優しさも、木々はくすぐったかった。
「何か気障くさいな」
「あのなあ……」
ここでやっとミツヒデの空気が緩んだ。感傷的だったそれが和らいで、抱擁の力も和らいで、ようやく彼の笑った気配に木々も体から力を抜く。
「……なあ、最初の相手って誰だったんだ?」
「聞いてどうするの」
「いや、なんというか」
ところでいい加減重たいのだが、彼にしては珍しくそのあたりの配慮が欠如している。話はあらかた片付いたはずだが、ミツヒデが離れる様子はいまだない。
「そいつになりたいなあとか、ちょっと」
文句を言うつもりがそんなことを言われて、気が付いたら溜め息で終わっていた。まったく本当に、過保護なんだか同情なんだか執着なんだか、何でもいいがその発言は木々にとっては無意味に等しい。
「やめてよ」
木々は広い背中に腕を回す。
「私は今のあんたがいい」
あんな一回限りのことなんてどうだっていい。執着するのなら、もう記憶も朧気なその時の相手より、今のこの男に。
そもそもこの行為に女としての意味を見出すとすればこれが初めてだ。なかば諦めていたこの瞬間に、この感情に、木々が今どれだけ満たされているか彼にはわからないだろう。
意味わかる、と問うとミツヒデが息を吐いた。
わかるよ、と応じて、居心地悪そうに身じろぐ。
「……木々」
「なに」
「空気ぶち壊して申し訳ないんだが」
ああ、と様子を察した木々からようやく身を離して、ミツヒデはぎこちない動作で木々の顔を覗き込んだ。
「まずい。限界だ」
しかつめらしい顔で言うものだから危うく吹き出すところだった。どこまでもまっすぐで等身大で、そういうことが下手な木々の手を引くように彼自身を見せてくれる。いずれ彼のようにできるだろうか、と一瞬考えてすぐさまやめた。無駄だ。だからこそ惹かれてやまない。
木々は居直って首を傾けた。
「……それで?」
「聞くのか」
苦笑したミツヒデが、耳元に口を寄せて木々が欲した言葉を囁く。
女を求められる。それがじんわりと心に染み込む。気付かなかっただけで、本当はずっと求めていたのかもしれない。
木々の損な性分をこの男は損ごと掬い上げてくれた。
呆れるほど優しい男に自分も優しくあれたらと願う。そんな芸当が果たして出来るだろうか、と可笑しく思いながら、触れる唇を心置きなく受け止めた。
(2012/10/30)