リュリ
まっすぐ伸ばされた背中に、いつも感じるのは強さと信頼だった。決してぶれぬ強さ、だから安心して背中を預けられる。真っ直ぐでしたたかな芯が、見えないだけで、きっとその背に通っているのだ。ミツヒデは彼女の背中が好きだった。
だが、こんなにも孤独を孕むものだったか。
その姿に胸を衝かれた。呼び掛けるはずだった声は押し寄せる感情に呑み込まれ、その感情の名が何なのかもわからないというのに、手に負えない。
美しい背中だ。けれどどこか冷たい。
朝は鍛練に励む兵たち、昼や夕方は手合わせやら稽古試合やらで沸き立つ兵たちに溢れ、賑やかしいはずのこの稽古場は、今だけ途方もなく静かだった。夜風に紛れてくるのは軽やかな足音と、剣先が空を切る無機質な音、そして、彼女の呼吸。
足が地を踏む、切っ先が翻る、生じる吐息は乱れてはいない。彼女の剣捌きはいつだって美しい。しなやかな身のこなしは男には持ち得ぬものだ。
彼女と出会うまで、彼女と戦うまで、ミツヒデはそれを知らなかった。
「木々」
ようやく発声に成功した。呼び掛けた名は短く響き、おそらく動揺は滲まなかっただろう。振り向いた彼女にどうにか普段通りの笑みを見せた。
「精が出るなー、こんな時間まで」
「……なんか用?」
「いや、ちょっとした差し入れをもらってな、木々にもと思って」
ほら、と手にした小包を示す。終業後に談話室で兵士たちと喋っていた時、若い侍女が皆さんでどうぞと差し入れてくれたものだ。
仕事の後の甘味というのは驚くべき需要を有するもので、兵士たちは漏れなくがっついていた。見かねたミツヒデが、木々にも取っておいたら喜ぶかな、とそれとなく呟いてみたところ、きちんとその分が残っていたという、面白いような面白くないような余談付きである。そこから木々の話題にシフトしかけたので思わず逃げるように出てきた。
「よくわかったね、ここにいるの」
「まあな、俺にかかれば木々の居場所くらい」
「……」
「いや、冗談だよ……」
そんな目で見ないで欲しい。せめて突っ込むとかなんとか。
ともかく、私室を訪ねてノックに返答がなく立ち尽くしていたところ、通りがかりの兵士が稽古場で木々を見たという目撃情報を提供してくれただけの話だ。
「いるだろ? うまかったぞ」
「わざわざどうも」
「素っ気ないな……」
もう少し嬉しそうに言ったらどうか、とミツヒデは苦笑する。相棒という立ち位置に収まるようになってから、木々はむしろミツヒデへの愛想をどこかへやった。おまけによその兵に対しては社交辞令という最低限の愛想を見せるのだから穏やかでいられない。無愛想は親愛の証とわかっていながら、それでもミツヒデは彼女のほどけた表情が見たい。この関係性に不満などないが、あと一歩を踏み出してしまいたい欲求が日ごと募っていく。身勝手な独占欲がこうしてミツヒデを煽る。
けれど踏み込む理由よりも、踏み込めぬ理由が、その感情を阻むばかりで。
「ずっとここにいたのか?」
「一時間くらいかな」
「へえ……」
何かあったのか訊くべきか迷った。彼女が一人で稽古に打ち込んでいることは珍しいことではないが、時間帯も妙だったし、何より先ほど見た背中が頭から離れない。
素直に話してくれるようなたちなら訊くものも訊けたのだが。諦めて違う話題を口にしようとした時、ふと彼女の瞳がミツヒデに向けられた。
「少し相手してよ、ミツヒデ」
なんとも凪いだ瞳である。面白がっているわけでも、苛烈な闘争心が覗いているわけでもない。傷付いているわけでも自棄になっているわけでもない。彼女の真意が見えず、ミツヒデは少し躊躇った。
とはいえ断る理由が見当たらない。仕方なく稽古用の剣を取り、抱えていた小包をかわりに置く。
「……なあ、木々」
「何。乗り気じゃないなら別にいいよ」
「いや、そうじゃないんだが」
木々と剣を交えることは嫌いでない。ただこうも掴みどころのない空間での手合わせとなると複雑だった。受けて立っていいものかまだ悩みながら、けれどもはや引くに引けないミツヒデである。
剣を構えると向き合った木々も剣先を据えた。涼やかな目元がミツヒデの出方を窺っている。完全に臨戦モードに入ってしまった。
ミツヒデは諦めて地面を蹴る。
一気に木々の懐まで踏み込み、脊髄反射で身を引かせた彼女にさらに畳み掛ける。振り下ろした剣を低姿勢の木々が受け止めた。きん、と冷たい音が稽古場に響く。
思いがけないことに彼女は剣を押し返してきた。拮抗を見せる二つの剣に、ミツヒデは驚くよりもたじろいでしまう。普段であればこの状況、彼女は間違いなくミツヒデの剣を受け流す。
相手がミツヒデでなくてもそうだ。それが彼女の戦い方だ。力では男に勝てぬと知っていて、それでも戦う彼女の。
胸が軋んだ。どうしてそんならしくない剣の振るい方を。
手を抜いたところで木々は怒るだろう。最悪口を利いてもらえなくなる。
ミツヒデはいつもこうして彼女への感情を持て余した。本当は誰よりも木々を大事にしたくて、そこに根差す感情だって自覚していて、けれど彼女がそういう扱いを望んでいないことも知っている。特にミツヒデが相手ではなおのことそうだろう。女としてでなく相棒として対等にあれることを望んでいる。下手をするとミツヒデの思いは木々を傷つけるのかもしれない。
それだけは絶対に嫌だ。
改めて剣を押し返すと、増した圧力に木々が顔をしかめた。しばらく膠着状態が続き、先に諦めたのは木々のほうだった。剣先を受け流して体制を立て直す。拍子抜けするほどあっさりとした立ち回りだ。
なにかに納得したか。あるいは諦めたか。
木々はそこからいつも通りに剣を振るう。ミツヒデの剣をかわす、流す、かと思うと思いがけないところから切っ先が飛んでくる。軽やかな剣捌き。ミツヒデは知らず胸を撫で下ろした。
誘い込む動きを敢えて追わず、逆に乗せられたと気付いた木々が踏み込む。タッチの差で眼前に剣先を突き付けた。試合終了。
「……勝負あったな?」
「……」
溜め息をつく木々に苦笑して、ミツヒデは剣を下ろした。
同様に剣を収める木々に向かって一歩踏み出す。手を伸ばそうか迷った。何も言わない彼女の双眸に葛藤の色はなく、凪いでいる。静かな瞳がふと違うところを見た。
「やっぱり力じゃ敵わないな」
言葉は取りこぼされた。自分に言い聞かせている様子も、まして負け惜しみやあてつけの類いでもない。
ミツヒデは伸ばしかけていた手をぐっと引く。無意識のうちに拳を握っていた。
「……おまえは、女であることを後悔するか?」
「しないよ」
あさってを向いていた双眸がミツヒデに戻される。深い瞳だ。迷いも後悔もすべて奥底に潜ませてしまえるほどに深い。
「しないけど、ここで女扱いされたら、すると思う」
兵団のことだろう。木々は普段なら女として扱われても、喜びはしないが別段嫌な顔もしない。けれど剣士としての木々はそれを望まない。
されたのか、と訊くと木々は首を振った。女扱いはされていない、落ち込んでいるわけでもない、だが挙動はおかしい。今日の木々は一体どうしたというのだ。
「私は女で」
「……うん?」
「兵たちもあんたも、女としてじゃなくて剣士として扱ってくれるから、忘れそうになる」
その言葉を聞いて、ミツヒデは自分の言葉が根本的に間違っていたことに気付いた。
後悔ではない。彼女の内側にあるのは葛藤だ。女として扱われるのは本意でなくとも、それが叶う環境にあったとしても、実はだれよりも彼女自身が自分は女であることを忘れてはならない。力が通用することに自惚れてはならない。
木々はいささか頭が良すぎる。おまけに少しひねくれてもいる。そしてそのひねくれた部分は、おおむね他人ではなく彼女自身に向けられる。
「だからあんたに負けとこうと思って」
「行き当たりばったりだな……俺が手を抜くとか考えなかったのか」
「抜かないでしょ」
それも根拠のない言い分であろう。けれど言葉に滲む根拠のない信頼が、ミツヒデの心をくすぐると同時に重くする。
まるで牽制されているかのようだ。伝わらないのではなく伝えられない。木々がミツヒデに望む在り方と、ミツヒデが木々に向ける感情はまるで相容れないものだ。そうしてそれならと身を引いてしまえる、聞き分けの良さがミツヒデの弱点でもある。
まったく厄介極まりない。自分か彼女か、せめてどちらかがもう少し不器用だったなら。
少なくとも年相応の男女が夜更けに二人きり、それでやることが剣を向け合うだけだなんてそれはさすがに色気がなさすぎやしないかと、浮かぶ笑みに苦味が滲むのはどうしようもなかった。
(2012/08/01)