Regrette
脇腹が痛む。
思いのほかしぶといな、とミツヒデは見込みより長く居座る痛みにいいかげん嫌気が差していた。患部を刺激しないよう大人しくしていると痛みに集中してしまうし、かといって下手に動けば当たり前だが傷は痛む。この不毛な時間が一刻も早く過ぎることを願いながらミツヒデは長らく寝台と仲良くしている。そろそろ薬も効いてくるだろう。少しでも楽になればあとは何事もなかったという顔をするだけだ。
そういえば剣の手入れをしていない。目敏い人間がいるので寝る前にやっておかねば、と緩い瞬きをしたところで、部屋のドアが控えめにノックされた。
「ミツヒデ? 起きてる?」
相棒の声がドアの向こうに聞こえる。寝たふりをする、という選択肢が一瞬頭をよぎったが、時刻はまだ九時、それはそれで怪しまれると判断してすぐさま却下した。
「ああ、起きてる――」
「入るよ」
「えっ」
許可をもぎ取る言い方である。直後にドアの開く音がした。端から拒否権などないらしい。
ミツヒデは慌てて上体を起こす。突然体を動かしたことで脇腹が脈打つように痛み、苦痛の表情をむりやり押し退けたところで木々が顔を覗かせた。
「……あのな、こういうのは返事を聞いてから入るものであってだな」
「何まどろっこしいこと言ってるわけ」
「着替えてるところだったらどうするんだ」
「どうもしない」
本当にどうもしないのがこの相棒の恐ろしいところである。顔色ひとつ変えずにせいぜい出直すとかその程度であろう。
木々はつかつかとミツヒデの前に立つと、怪我、と思わぬ単語を口にした。あまりに想定外でミツヒデは表情を取り繕いそこねた。
「え」
「怪我。見せて」
ミツヒデは口を閉ざした。彼女の指摘にはそれに見合う前提が存在しており、つまり昼過ぎに一件、仕事といえば仕事なのだが厄介な集団と一戦を交え、そのさなかでうっかり怪我を負っている。その時思ったことといえば傍目にわかる怪我でなくてよかったということと、身内に目撃されずに済んでよかったということのふたつだった。思った以上に長引いたことには辟易させられたが、まさか見られていたとは。
「……いや、まあ、大したことない」
深く考えて口にしたわけではなかった。このまま痛みが引くとなれば本当に大したことのない話で、相手の一撃をもらってダウンという笑い話にもならぬことをわざわざ広げることもない。
ぴくりと彼女の柳眉が動いた。不穏な兆候。
あ、まずい、とミツヒデは直感する。
「――木」
引き結ばれた口元を見てミツヒデは自分の発言を失言へと分類した。大いに機嫌を損ねたようである。
ミツヒデは咄嗟に頭を回転させる。前言を撤回して洗いざらい吐くか。いや吐くにしたって吐くほどの話もない。とりあえず謝ったほうがよさそうだが裏目に出る可能性がなきにしもあらず、となるとやはりしらを切るほうが得策か。一瞬の間にあれこれ練ってはみたが、いずれもたいした結果は期待できそうにない。
そんなところで時間切れとなった。
ふいに木々の手が伸ばされる。彼女にしてはいくらか乱暴な動作で、その手つきから彼女の苛立ちが見えるようでなんだかひやりとした。
思わず身を引かせる。その分を詰めるように木々が迫ってくる。まず右手で肩を押さえられ、続いて患部へと向かう左手をミツヒデは慌てて押さえた。物言いたげな瞳とばっちり目が合う。そのまま三秒ほど色気の欠片もない力の拮抗があり、寝台での攻防という現状と脇腹が痛み始めたことでミツヒデは変な汗をかきそうだった。
「……お、落ち着け、木々。とりあえず、この体勢はまずい、いろいろと」
「ふうん」
「ふうんじゃない。頓着しろ、頓着」
木々は応じるだけで身を引こうとしない。最悪このまま話が逸れてくれるならそれはそれで、と現実逃避をはかるミツヒデは、そのとき自分が怪我人であることをきれいに忘れ去っていた。
怪我を上回る事案が一気に発生したせいもある。いかんせん近いのだ。彼女の体を押し返そうと体勢を変えた瞬間、脇腹に重たい痛みがのしかかって一瞬息が止まった。ぎゅうと顔を顰めたミツヒデを間近にして、彼女がたじろぐ気配がする。
木々の手が離れる。
何かを思うより先にその手を掴んでいた。
表情を見ることはかなわなかったが、取り巻く空気と触れた手から彼女の躊躇が伝わってくる。手を振りほどこうともしなければ緊張を解こうともしない。自分がどう立ち回るべきか掴みあぐねているのだろう。
大丈夫だ、とミツヒデは説得力のない声で告げた。何がどう大丈夫なのかは自分でもわからないが、何せほかに正解となる言葉が見つからない。
木々は少し逡巡したのち、結局居心地悪そうにミツヒデの隣に腰を下ろした。
「……ごめん」
「……いや、俺こそ、何かすまん」
気まずい沈黙が流れた。彼女との間に流れる沈黙としては珍しい種類のものである。どう切り出したものか、と思案するミツヒデは、けれど思案しているうちに彼女に先を越された。
「手当ては」
「え、ああ、さっき、ガラク室長に」
「痛むわけ」
「まあ、それなりに、痛み止めもらったから大したことはない」
「なんで黙ってたの」
「……」
ミツヒデは口を閉ざす。言うか言わないか、どちらのほうが彼女を怒らせるか少し考え、すぐにやめた。怒らせるのではなく傷つけるのだ。聡い彼女のことだからきっとミツヒデの真意にももう気付いている。何より自分たちの関係性においてだんまりというのはあまりに不実といえた。
「……心配するだろ、木々」
「するよ」
「だからその、心配される柄じゃないっていうか、普段心配するほうの立場だし、そういうバランス的な」
「……」
彼女の無言がちくりと刺さる。俯く木々とは目が合わず、掴んだままの手だけがふたりの接触を繋いでいた。
「……あんたは」
「え」
「私に心配すらさせてくれないわけ」
「いや、そういうつもりじゃ」
「もし私が気付かなかったら、私はあんたが怪我したことすら知らないままだった」
それは、残念ながら、彼女の言う通りであった。そもそも木々がミツヒデの怪我に気付いたということが想定外であり、本来の予定としては誰にも知られずこの一件を処理するつもりだったのだ。要するに彼女の言葉に対する言い訳など持ち合わせていない。
「……木々、その」
「さっきの、心配される柄じゃないとか、バランスとか」
「ああ」
「たしかにあんたはそうだし、そう思った手前私が言えたことじゃないけど」
けど、の先を木々は言葉にはしなかった。それでもミツヒデには大方の見当がついていた。彼女自身も比較的物事をひとりで抱え込むたちで、抱え込まれた側の人間がどういう思いをするかはミツヒデもよくわかっている。
わかっているけれど難しいのだ。それは彼女の強情や気難しさの類いではなく、それを受け止めたいと思っているがゆえの難しい問題でもあった。
「……すまん、木々」
「嫌だ」
指を絡める。木々はうつむいたままだ。
「いやだ」
駄々をこねる彼女の頭をあやすように撫でて、結局そのまま引き寄せる。さしたる抵抗もなくミツヒデの腕に収まった木々は、それでもミツヒデの怪我を気にして体重までは預けない。それがどうにもいじらしくてミツヒデは破顔した。
「ゼンとオビには言うなよ」
「……あんたのそういうところ、本当に嫌い」
それは困る、とミツヒデは笑った。笑った拍子に脇腹が痛んだが、それも先に比べればいささかましである。薬が効いてきたらしい。ミツヒデは調子づいて、頑なに体を預けようとしない彼女の体をあと少し引き寄せる。
(2015/02/22)