ラバーズ・ラプソディ
明かりを消して寝台に潜り込み、目を閉じた矢先に来訪者があった。
――誰だ。不愉快なノックの音に木々はうっすら瞼を持ち上げる。
体力が基本の職務のため就寝は早い時間にとることにしているが、それにしたって非常識極まりない時間帯ではある。寝たふりという選択肢を一度検討し、万が一、という言葉に負けて木々はしぶしぶ身を起こした。さむい。
ちなみに寝台を下りる前から嫌な予感はしている。深夜のノックなどろくなものでないことがほとんどで、どうせ起きたことを後悔するのだろう、とわかってはいるが万が一緊急の呼び出しだった場合がまずい。思い過ごしであれと杞憂を願ってドアを開けた。
甘かった。
「!」
ドアを開けた瞬間に正面から覆い被さられ、受け止め損ねた木々は一歩退いた足でどうにか踏み堪えた。倒れ込まなかったことがせめてもの幸いである。けれど手から離れたドアは律儀に役割を果たしてぱたりと閉まり、自分の迂闊さにうんざりしながら相手を引き剥がそうとしたところでようやくその正体に気づく。
「……ミツヒデ?」
「木々ー」
てっきり不貞な輩か何かかと思っていたのはよく知ったる相棒であった。何をしているのだこの男、とそれはそれでうんざりする木々である。
「ちょっと、何して……ていうか離れて」
「冷たいなー、木々は。冷たい」
「あんた酔ってるでしょ」
無遠慮にかけられる体重を苦しい体勢で支えながら、わずかに鼻につくアルコールの臭いに顔をしかめる。珍しく飲んでいたのか。いや、飲んでいたのはともかくとして、珍しく呑まれている。
「なんでもいいから、一回離れて。苦しい」
少なくとも自分の腕力と体重を忘れるくらいには酔っているらしい。狭い隙間を縫って肩を叩くと、しぶしぶとではあるが腕の拘束が解かれた。木々はその腕を無造作に掴んでソファまで誘導し、グラスに注いだ水を渡す。居座られるのは本意ではないがアルコールの抜けていない状態で城内を歩かれても困る。
そもそも何故ここへ来たのだろう。さっさと自室に戻って寝たほうがいい。
「どれだけ飲んで、いや、その前に誰と飲んでたの」
「オビ」
「……」
木々はこめかみを押さえた。
飲み比べでもしていたか。いずれにせよミツヒデは自制するべきだったしオビは止めるべきだったのだ。こちらはただのとばっちりである。いい迷惑だ。
「わざわざ絡みにきたわけ」
「ああ、木々の顔を見に」
空になったグラスをテーブルに置きながらへらりと笑われ、木々は毒気を抜かれてしまった。酔っ払いが相手では怒るに怒れない。
顔を見たらならさっさと帰れと言いたいところだが、へろへろの男を相手にそれも大人げない。放っておけばそのうち寝るだろう。役目を終えたグラスを手に取り、木々はミツヒデの放置を決めた。
見当織がぶっ飛んでいる様子はないのでそこまで泥酔しているわけではないらしい。意識も一応ちゃんとしている。不安があるとすれば明日ここに至るまでの記憶が残っているかどうかという点だ。たぶん忘れている。
ともあれ彼が自制を忘れるほどに飲むというのは珍しかった。長い付き合いになるが初めて見た気がする。もともと酒癖の悪いたちではないし、どちらかというと人の面倒を見てしまう性分なので、おそらくオビが相手だったというところに大きな原因があるのだろう。今のミツヒデにとって一番気兼ねなく対等に飲める相手だ。うっかり羨ましいなどと思ってしまい、木々は苦虫を噛み潰した。
戻ると案の定ミツヒデはソファの上で横になっている。
「ミツヒデ?」
声をかけても反応がない。木々はやれやれと嘆息して、ベッドに掛けてあったブランケットを窮屈そうにしている男に掛けてやった。
なんだか癪だった。木々自身はあまり飲めないので仕方ないが、その後に顔が見たいと言って来てしまうあたり、なんというかずるい。
明日少しくらい冷ややかに接してもばちは当たらないだろう。木々は彼へのささやかな腹いせを決めて、こちらも就寝するべく踵を返した。
けれどそれより先に腕を引かれた。完全に油断していた体は呆気なくバランスを崩してソファに倒れ込む。
「何――」
寝ていたのではなかったのか。
慌ててソファに手をつき、彼に覆い被さる体勢を取ったところでまた違う方向に力が働いた。背中にクッション、視界に天井、組み敷かれたと気づいた時には唇を塞がれていた。やられた。
「ふ……っ」
酒のせいだろうが体温も唇もいやに熱い。一瞬だけ離れた隙をついて木々はどうにかミツヒデの口元を押さえた。このままなしくずしだなんてたまったものではない。
だというのに退くどころか押し返す手を逆に掴まれた。ソファに抑えつけられて抵抗もままならず、伸し掛かる体も相まって逃げ道がない。酔っているとはいえいつにない強引さである。
「待っ……て、離して」
「いやだ」
「やめ……っ、ミツヒデ!」
「木々」
しかし、次になされたのは思いがけず強い抱擁であった。覆い被さったまま木々の体に腕を回し、馬鹿みたいにぎゅうぎゅうと力をかけてくる。苦しい。
「ちょっと、重い……」
呻くように訴えると、首元に埋められていた頭がもぞりと動いた。
「オビが」
「え?」
「オビが、木々ならって言うから」
何を言っているのかわからず、柄にもなく呆けてしまった木々は、何の話かと口を挟むタイミングを逃してしまった。酔っ払いの脈絡にまったくついていけない。
「木々は駄目だって言ってきた」
「全然わからないんだけど」
「木々は誰にもやらん」
よくわからないが、たぶんオビにからかわれたか何かしたのだろう。木々はようやく腑に落ちた。酔っ払いの戯れ言を酔っ払いが本気に受け取っただけで、いや、彼の場合素面でも本気に受け取る可能性はあるが。
いずれにせよとばっちりに違いはない。木々は誰に文句をつければいいのかわからず、結局酔っ払いにほだされて仕方なく彼の背に手を回した。とんとんと、まるで子供をあやすようにでかい背を叩く。
「オビが何を言ったか知らないけど」
「……」
「どこにもいかないよ」
相手が酔っ払いでなければ到底口にできぬ言葉である。何よりひどく眠い。
窮屈さが増す抱擁の中、彼が何も言わなくなったので満足はしたのだろうと勝手に判断して役目を終える。眠たい頭でせめてこの台詞だけでも彼の記憶から抜け落ちていることを願い、木々はふうと目を閉じた。