月映えの淵
 なまぬるい風が頬を撫でる。滲む汗が先の夜戦によるものか、はたまた相棒を見失った冷たい予感からくるものか、わからぬまま返り血と一緒くたに腕で拭う。  頼りは月のあかりだけで心許ない。足元と周囲の音にただ集中して、ミツヒデは焦る気を抑えて慎重に森の中を進む。  木々が姿を消した。  ゼンの管轄下、関の兵たちが手に余らせていた野盗団の討伐のさなかである。さなかというか、頭領を討ったと伝令があったので終盤と言って差し支えない。  気がつくと木々の姿がなかった。 (木々)  は、と息が弾む。いやな予感がした。それは常からの過保護とは異なる、姿を消すに至った彼女の意思やその目的に対する不安だった。  もとより思慮深い木々は単身で戦うような真似はしない。最低限、いざという時に互いの目が届く距離を保つようにしている。その距離はつまり、不測の事態が相手に振りかかった場合、すぐさま気付ける距離でもある。  その距離から木々が離脱した。  ミツヒデが気付かなかったということはあえて気づかれぬように動いた可能性が高い。  問題はそこだ。 「木々!」  ざわ、と空気ににおいが混じる。  やはりだ。ミツヒデはにおいを辿るように足を早めた。足場を選んでいる余裕などなく、無理に繁みをかき分けて彼女を探す。見張り役の防衛線としてあつらえられたのだろう、覆い茂る枝葉を突き抜けるとひらけたところに出た。  そこに彼女がいた。まっすぐに伸びた背中。  ミツヒデは口を閉ざす。  返り血に濡れた木々が佇んでいた。 「……木々」  その声は果たして彼女に届いただろうか。独言のように力を持たぬ声だった。  それでもミツヒデの気配を察して、彼女はゆるやかに振り返る。頬にこびりつく血痕がミツヒデの胸を締め付けた。 「……ああ、ミツヒデ」  彼女の声だけがいつもと変わらない。まるで朝稽古のあと、おはようと声をかけて、おはようと応じるような。そういう何気なさがあった。  彼女の足元には少年兵がふたり倒れている。  近衛兵の紋様。顔にも見覚えがある。彼らが本来握っていたはずの剣先は、彼女のそれとは異なり、綺麗だった。 「——なんで」 「何が……ああ、このふたり」  木々は得心したようにふたりを見下ろして、続いて自身の剣を見た。暗がりにでもわかる、血濡れた剣先だ。その手にはまだ彼らの肉を抉った感触が残っているだろうに、彼女の目元は普段通り涼やかである。 「内通者。いるとは思ってたけど、まさか二人とは」 「おまえが……やったのか、ふたりとも」 「ああ、知った顔? そういえばふたりとも何回か稽古つけたな。この様子じゃ足りなかったみたいだけど」  違う。そんなことを聞いているのではない。  地面にへばりつく足をようやく引き剥がして、ミツヒデは佇む彼女へとゆっくり近づく。らしくもなく皮肉のような言葉を吐いて、そのくせその場を離れられずにいる彼女は、剣を収めることも忘れている。 「いつ気付いたんだ」 「関を出る少し前。言い争ってるみたいだったから何かありそうと思って」  気をつけていた、と木々は淡々と続ける。 「言えよ……」 「確信があったら言ってた」 「その結果がこれか」 「追うなんて言ったらあんたが行くとか言い出すでしょ」 「当たり前だ!」  荒い声に驚いたのは他でもないミツヒデである。心配したこと、もどかしいこと、様々な感情がないまぜになって溢れてしまったのだ。ミツヒデはばつが悪くなって口をつぐむ。  木々のほうもやや驚いた様子であった。驚いたようにミツヒデを見上げて、そのまま、口元に笑みを刷く。 「だから言わなかった」  何故と口を挟む隙もない。木々は微笑んだまま続ける。 「あんたにこういう仕事は向いてない」  そうして倒れたふたりを見た。  顔なじみの兵たち。身内の裏切り。そしてまだ少年といえる彼らを斬ること。たしかにやりきれない案件だ。それでも、とミツヒデは奥歯を噛む。 「……仕事ならやるさ」 「知ってる。仕事をして、仕事だからって自分に言い聞かせる」 「それの何が悪いんだ」 「悪いだなんて言ってないでしょ」  あんたらしいよ、と木々は笑った。 「だから私がやっただけ」  けれどその言葉は彼女の感情を裏切っている。  ミツヒデは剣を握る木々の手に触れた。かたく柄を握っていたその手は、ミツヒデの指先が接触したことでひくりと震える。上辺の言葉でも表情でもない、血濡れた手だけが彼女の感情を如実に映し出していた。  手を取って、促すように剣身を収めさせる。行き場をなくしたその手をミツヒデはやさしく握りしめた。ひどく冷えた手だった。 「……俺が、望んでないことくらい、おまえならわかってるんだろう」 「まあね」 「ならどうしてこんな真似を」  声が震えていた。  情けない言葉に彼女は答えなかった。縋るように見つめるミツヒデの視線を受け止めて、答えるかわりに木々は微笑む。あんたこそ、とそのやわらかい目元が言っていた。  あんたこそわかっているくせに。  返り血に汚れながら木々は美しい。  ミツヒデはその痩躯を抱きしめた。聡明で愚かで美しく、同胞の血に汚れた彼女を月にだって見せてはいけない気がした。  加減を知らぬ腕の中、木々が苦しいと文句を言う。抵抗の力はない。 「汚れるよ」 「構うもんか」 「せっかくあんたの分まで汚れ役かったのに」 「怒るぞ」  ひどく狭い世界にいる気がした。息が詰まるような閉塞感。彼女は何を思いながらミツヒデの腕に収まっているのだろう。  遠くからゼンの声がする。ミツヒデを呼ぶ声。木々を案じる声。それでもミツヒデは腕を緩めない。狭い世界の中で、ごめん、と木々が囁いた。
(2019/06/23)

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