バスマンズ・ホリデイ
深夜のバイトを終えて地元駅に着くと大体十時を過ぎる。
すでにじりじりと日射しが強くなりつつある朝の住宅街を抜け、駅から徒歩十分、ベルトルトはようやく帰宅した。靴を脱いでついでに散らかった同居人たちの靴を申し訳程度に揃え、ただいま、と玄関を上がる。日曜の朝など寝てるかいないかなので返事は期待していない。気持ちの問題だ。他のふたりも同様の問題でいってきますとただいまは欠かさない。講義にバイトに友人との付き合いに、生活リズムは基本的に合わないが家でだらだらしていればただいまという声が聞こえてくるし、居るか起きるかしていればおかえりという応えもある。つまりはそういうことだ。
ともあれベルトルトはひとまずリビングに向かった。
何か食べてからシャワー浴びるかな、と廊下とを隔てるドアを開けると、途端にひやりとした冷気が正面から襲ってきた。あまりの冷えように思わず首を竦める。
部屋の中央でアニがうつ伏せにのたれていた。
「……冷房かけすぎだよ、アニ……」
下ろされた髪がぴろぴろと力なく空調に煽られている。
ソファに放り捨てられていたリモコンを拾い上げ、二度ほど設定温度を上げた。行き倒れた少女はぴくりともしない。おそらく空調の効かぬ自室から逃げてきたのだろうが、それにしたってせめて掛けるものを持ってくるとか何とか。
シャツから投げ出された白い腕に触れると案の定冷え切っていた。ショートパンツから伸びる足も同様であろう、ベルトルトは溜め息をついて自室に向かう。
朝食もシャワーも早々に優先順位が降下していた。ショルダーを適当に置いてかわりにブランケットを引っ提げ、再びリビングへと足を向ける。戻った頃には幾分冷気が抜けていたが相変わらず寒い。
「ほらもう、アニ、凍っちゃうよ」
ひくりと身震いしたアニが、なにか、おののくように薄目でベルトルトを見た。少なくとも寝惚けまなこではあったが、あ、とベルトルトは口を引き結び、目を逸らして何事もなかったかのようにブランケットを掛けてやった。アニがもぞとぞとそれを引き寄せる。やっぱり寒かったんじゃないか、とベルトルトは爪先まできちんと掛けてやる。
「……ねえ、アニ、たしかきみ、去年もエアコンで風邪ひいたんじゃなかったかな」
聞こえているのか聞こえていないのか、おそらく聞いていないのだろうが、アニは寝返りを打ってベルトルトに背を向けた。ひどい。
丸まった背中の肌を隠すようにシャツの裾を直してやり、ついでにブランケットも引っ張って、ベルトルトはその隣に横になった。冷えきったからだを後ろから抱き込むようにして、少し身じろいで収まりのいい体勢に落ち着く。アニが一度鬱陶しげに身を捩ったがすぐさま寝息を立て始めた。
ベルトルトもふうと力を抜く。クーラーの冷気とブランケットとアニの体温がちょうど心地好かった。
***
一方のライナーは宅飲み明けだった。
終電で帰る予定が、日付を跨ぐ少し前くらいから下世話な話で盛り上がり、明け方からの数時間を雑魚寝で済ませただけというひどい状態での朝帰りである。時刻は十時半。
身体中が重い。当然である。頭も重い。
ただいまと呻いて靴を脱ぎ、風呂場に直行した。せっかくの日曜だがおそらく寝て終わるに違いない。学生なんて総じて馬鹿だ。
無造作に通り抜けてきた玄関はたしか靴の数は少なくなかったから二人ともいるのだろう。小綺麗だったから間違いなくベルトルトはいる。
アニは昨夜ミーナたちと飲みに行くと言っていた。おおよその可能性でまだ寝ているだろう。ベルトルトはバイト明けだ。こちらもおそらく寝ている。が、その前につまり昨夜はアニ一人だったのかと思い至って渋い顔をした。やはり終電で帰るべきだった。今後もうコニーにダル絡まれようと知ったことか。
幾度もほだされてきた決意を新たに、ライナーは適当にシャワーと着替えを済ませて脱衣所を出た。
本能は朝食よりも睡眠を優先したがっている。もちろんそのつもりだったがリビングだけ覗くことにした。別に用はないが素通りするのもなにか落ち着かない。他の二人も普段から用もないくせに顔を出すし顔を出せば誰かしらいるわけで、つまりはそういうことだ。
リビングのドアを開けると、そよりと程よい冷気が火照った体を出迎えた。風呂上がりに冷房というのもなかなか贅沢であるが、残念ながら贅沢を味わうより先にリビングの中央に転がる夏馬鹿を発見してしまった。
ライナーは不機嫌に眉を顰めてリモコンを拾う。
ピ、と冷房を止めると夏馬鹿のでかいほうが頭を起こした。
「……あれ、ライナー、おかえり」
「お前ら何だ? 揃って風邪でもひく気か? 新手のテロか?」
「ああ……、たしかに、ライナーの看病とか、テロだね」
「踏んづけるぞ」
駄目だよアニ起きちゃう、とベルトルトがふにゃふにゃした声で訴える。何から突っ込むべきかよくわからない。
首にかけたタオルで頭を拭きながら、ライナーはとりあえずその場に腰を下ろした。アニの剥き出しの肩にブランケットを引き上げてやる。
「バイト明けだろお前。部屋で寝ろよ」
「だって、どうせ一日寝て終わるんだし、だったらこうがよくない?」
こう、と言いながらベルトルトがアニの頭に顔を寄せる。アニは見た限り熟睡であるが露骨に嫌そうに身を捩っていた。不憫な男だ。
「ライナーも寝ようよ」
不憫なベルトルトがのたまう。
二十を過ぎると朝帰りなど正直体もハートもしんどい。ついでにろくすっぽ冷房の効かぬ部屋を思ってもういいや、となった。
被ったタオルごとアニの横に寝そべった。横になった途端に絶望的な重力が目蓋を襲う。その狭い視界でアニがもぞりとライナーに背を向けて、ベルトルトのほうに寝返った。たまたまだ。きっとたまたまだ。ライナーは自身に言い聞かせる。
肌が出てきてしまったアニの背中を隠してやって、さすがに窮屈なブランケットを引っ張ってベルトルトに文句を言われた。自分のものを持ってくる選択肢が一瞬頭をよぎったが、面倒くさいし何よりそんなの侘しすぎるので無視をする形で目を閉じる。
***
最終的にアニは圧迫感で目が覚めた。重だるくてぼんやりした頭が、ひとつ、壁を認識する。圧迫感の正体はこれだ。
身をよじろうとすると反対側の図体に肩が阻まれた。背中越しに暑苦しい筋肉の感触がある。なんだこいつら邪魔だ。
とても快適とはいいがたい、というか、誰だ冷房を切ったのは。馬鹿か。
寝起きの体温と両側の体温のおかげでアニの機嫌は最悪だった。窮屈な隙間で身を捩ってうつ伏せになる。絨毯と仲良くしているほうがまだましだ。その絨毯の上にクーラーのリモコンが転がっているのが見えて、アニはのろのろと手を伸ばした。
手探りでリモコンを操作する。ピピ、と音を立ててエアコンが唸り、ついでに下向き矢印のボタンを二回ほど押下しておいた。
やや置いてエアコンが快適な冷気を吐き出す。
アニは満足して二度寝の体勢に入った。空調の効かぬ自室のほうがおそらくよっぽど快適であろうが、寝惚けた頭でもそんなことはわかりきってはいたが、このままでいいかとほだされる気持ちの方が強かった。つまりはそういうことだ。アニは諦めて睡魔に身を委ねた。
(2013/07/19)