ライク・テイク・ブレス
ベルトルトには自室がない。
もともとは学生の一人暮らしでありながら少々贅沢な間取りで暮らしていた。居間とは別に寝室として一室。当然家賃もそれなりだったがバイトの割は良かったし、実家からの援助もあった。親の金を頼ることに抵抗はあったが、頼れる環境があるなら頼ろう、とベルトルトは早々に割り切っている。
寝室を別に欲しかったのだ。勉強が趣味とアニに嫌な顔をされるベルトルトは、その趣味に没頭する際文献と資料とパソコンとを広げられるだけ広げる。そうすると寝る場所がなくなる。今日はこのへんで、というたびに片付けて、翌日さあという時にまた復元して、という作業はベルトルトにとって非常にストレスであった。
生活空間と寝室を分けた部屋に一人暮らし。
それが紆余曲折あってアニと上手いことまとまって、その紆余曲折を思うといまだに鳩尾のあたりが重苦しくなるのだが、ともあれアニが働き始めたときに一緒に暮らそうとこの部屋に誘った。合鍵はずいぶん前に渡してある。
その際、アニが、自室がほしいと言った。
ベルトルトは迷うことなく寝室を空けると言った。というよりもともとそのつもりだったし、空けるといってもベッドやら本棚やらはそのままで、私物を置きっぱなしにすることも、趣味で居間をとっ散らかした時にベッドを使うことも、アニは許してくれた。寛大というより境界線が雑なだけだろう。
そんなわけで、自室を持たぬベルトルトが勉強する時、アニは基本的に部屋から出てこない。
彼女なりの気遣いであろう。改めて指摘すると蹴飛ばされるので言及はしていないが、ベルトルトはそうと確信している。確信して心の内で破顔して、ほんわりとしたいとおしさを噛み締める。
「——あれ?」
実際噛み締めていたところだったが目当ての本が見つからず、ベルトルトははてと首を傾けた。それをきっかけに没頭していた頭がようやく現実に引き戻される。何とはなしに時計を見ると九時前だった。そういえば夕飯を食べていない。
アニは数時間前に帰宅して夕飯を作ってそれきり部屋だ。冷蔵庫には不器用な夕飯が残っている。もうちょっとしたら食べよう、と資料をめくって本を探す。
見当たらない。
いくら散らかっているとはいえ本なんてそう簡単に見失うものではない。
ひとつ思い当たるところがあって、ベルトルトはのろりと立ち上がった。腰がぱきぱきと鳴る。
「アニ」
もと寝室の彼女の部屋をノックする。三秒。返事はない。
ベルトルトはもう一度、今度は少し強めにノックをした。
「アニ? 入るよ」
返事がないのでドアを開ける。電気はついたままだ。
お世辞にも広いとは言えない部屋である。探すまでもない、すぐそこのベッドでアニが背を向けて寝ている。
ベルトルトはそうっと足を忍ばせてベッドを覗き込んだ。案の定彼女は分厚い文献を抱え込んでいて、まるで外敵から身を守るように背を丸めて眠っている。
「……ごめん、アニ、ちょっと返してね」
手を伸ばす。思いがけず強い力で抱き込まれた本をこちらも少し力んで引っ張ると、眠っているはずのアニの空気がぴりと色を変えた。
手を弾かれた。その勢いのまま身を起こしたアニが屹然とベルトルトを睨み上げる。とても寝起きとは思えぬ形相であった。
疑うまでもなく威嚇されている。
ベルトルトはひとまず両手を広げた。降参のポーズ。
「……えっと、おはよう」
「寝てる女の部屋に勝手に入るってのどうなの」
「ひとの本持って籠城っていうのもどうかと思う」
アニが聞こえるように舌打ちをする。傷つくなあ、とベルトルトは苦笑するほかない。
「それ、返してくれない?」
「夕飯は?」
「いや、まだだけど」
「食べたら返す。あと少し休みな」
「——あ、そういう……」
「なに」
アニが怪訝な顔をした。向けられる視線は相変わらず剣呑だが、その中に自惚れではない心配の色が含まれている。ベルトルトは例によってほんわりと破顔した。
「心配してくれたんだ?」
「別に」
嬉しいようなむず痒いような、胸の内からじわじわ滲み出る温かみを噛み締めるベルトルトに対して、アニのほうはそっけない。けれど別にという返し方がアニの常套句であることをベルトルトは知っている。微笑ましいに変わりはなかった。
「何が楽しいんだか知らないけど寝て食うくらいはしなよ。あんた明日も朝早いんでしょ、バイト」
「そういうの世間じゃ心配って呼ぶよね」
「うるさいよ。あんたが倒れても仕事休まないからね」
いよいよ突っぱねられたベルトルトは、気をつけるよと緩んだ声で言ってアニの頭を撫でた。アニは嫌そうな顔をしているが手を払う様子はない。
「構ってほしかった?」
「——別に」
ふいと視線をそらしたアニが、テレビもみれないしと主張する。主張なのか言い逃れなのか怪しいところだ。
ともあれ常套句に気を良くしたベルトルトは、手が振り払われないことも相まってふつうに調子付いた。彼女の手からあっさり本を引き抜いて、あ、という顔をしたアニに口づける。
「夕飯もね、食べるつもりだったよ、ちゃんと」
「も、って……」
「先にこっちがいいなあ」
「ば」
っかじゃないの、という罵声を飲み込んでベッドに乗り上がる。アニのからだは呆気なくベッドに沈んだ。その上に覆い被さりながら、本来の目的であった文献をベッドの隅に丁寧に追いやる。
「勉強し倒してふと我に返った時ってさ、前はちょっと気が滅入ってたんだけど、今はアニいるし、こういうのなんか幸せだよね」
「——ちゃちい幸せだね」
「だからいいんじゃない」
なんでもいいけど夕飯食べなよ、とアニが不機嫌な風に言って腕を回した。比較的素直な彼女の様子に、やっぱり構ってほしかったんじゃないかとベルトルトは胸中で笑う。機嫌を損ねてしまうので口にはしないが、何にせよ寝室を分けた間取りは実に正しかった、と散らかったままの居間を思い、ベルトルトは満足だった。