ディアレス・キス
 倉庫の裏手側、そろそろ兵舎に戻るというアニに、名残惜しくなって口づけた。触れるだけの、気障っぽい別れ際のキス。  良いほうで睨まれると思っていた。けれどアニは、蹴りを見舞ってくるでもなく、歯をぶつけてくるでもなく、何か考えるようにベルトルトを見つめている。なんだろう、とベルトルトは居心地が悪い。 「……あんたのキスって」 「え?」 「やさしいよね」 「え」  だれかさんと違って、とアニはさらなる爆弾を投下する。彼女の声はまるで色事めいておらず、日頃と変わらぬトーンがベルトルトを余計に混乱させた。 「……あの、アニ、それ、誰と比べてる……」 「ライナー」 「ラ、ライナーか、そうか」  どういうことだ。  動揺を隠しきれぬままベルトルトは考え込む。彼女のこの唇にあのライナーも触れていたということか。ちょっとそれは、なんというか、許しがたい。 「えっと、アニ、ライナーと、キスするの?」 「は? あんたらはしないの」 「あ、うん、しないね」  なんだか既視感がある。戦士と兵士との狭間で自分を見失っているライナーとの、足を踏んでやりたくなるような噛み合わない会話を思い起こさせた。さすがにアニ相手に足など踏みやしないが、むしろ踏まれること請け合いだが、ともあれ前提にある認識が何かおかしい。 「ちょっとどこから誤解とけばいいのかわからないけど、とりあえず、僕とライナーはキスはしないよ」 「ふうん」  アニはどこか不可解そうである。不可解なのはこっちだ。  ひとまず何から消化していけばいいのだろう、とベルトルトは途方に暮れた。彼女は一体どんな意味を持ってライナーとキスをするのか。けれどそうすると、では自分とのキスは一体、という悲壮感あふれる思考へと辿り着く。そもそもアニはキスを何だと思っているのだろう。おやすみのキスとかこんにちはのキスとか、そういったアモーレな感覚でキスを捉えているのだとしたら、たぶん、説教が必要だ。おそらくはライナーとまとめて正座させるところから始まる。でも説教は苦手だしな、とベルトルトは混乱していた。  あのさ、とアニが温度の低い声で呼び掛ける。  ベルトルトはようやく我に返った。 「キスって、あんたとさっきしたみたいなやつだよ。ライナーがかっこつけてるだけ」 「――え、あ、そうなの」  ではライナーにだけ説教か。 「一応言っておくけど、僕はかっこつけたくてしてるわけじゃないからね」 「知ってるよ。あんたのはちゃんと優しいし」 「優しくないの、ライナー」 「優しくないっていうか、なんか、雑」  へえ、とベルトルトはやや薄い声で応じる。他の男とのキスの話なんて聞いていて愉快なものではない。たとえそれがよく知ったる仲のゴリラ、いや、ライナーだとしても。 「まあ、嫌なら嫌って、本人に言ってあげたほうがいいんじゃないかな」 「別に嫌とは言ってないよ」 「え」  思いがけぬ切り返しにアニを見ると、アニは首を傾けるようにしてベルトルトを見上げた。何てことのない口振りで本日三発目あたりの爆弾を放りこむ。 「優しくないキスってぐっとくる」  どうやら挑発されているらしいことに気付いて、さしものベルトルトもむっとした。自分とのキスをなんだか馬鹿にされている気分だ。自分とのキスにはぐっとこないということか。そうか。  ベルトルトは無防備にけしかけてくるアニの頬を両手で押さえ、頭を屈めながらぐいと引き寄せた。 「――ちょ」 「僕だって優しくないキスくらいできるよ」  引き気味のアニの唇を奪い取った。噛みつくようにして口を開かせて、小さな口腔に舌を潜り込ませる。  手始めにねっとり歯列をなぞるとアニのからだがふるりと震えた。おののいて縮こまる舌を探り当てると彼女の両手がベルトルトの腕に縋り、んん、と苦しげな抗議が鼻から抜ける。構わずに深くかじりついた。存分にどきどきすればいいのに、と思いながら、ベルトルトのほうこそ完全に鼓動も呼吸も掻き乱されている。 「ふ、っ、……ッ」  よもやこんな声までライナーに聞かせてないだろうな、と危惧する。悪戯に上顎をなぞると鼻にかかった悲鳴が口の中に消えた。かくんと膝の崩れたアニの腰を支えながら、より一層密着させて深く求める。  ぬる、と舌を篭絡した途端、限界を超えたらしいアニがベルトルトの舌を噛んだ。 「いッ……!」  おそらく故意ではない。事故だ。キスのおかげでろくに力が入っていないことが幸いだったが、さすがに驚いてベルトルトは口を離した。あわやのところで落としかけたアニの体を支え直し、口元を抑えながら彼女の顔を見る。  アニはちょうど、じわりと顔を紅潮させたところだった。  真っ赤になった彼女が口元を引き結んで右手を振りかざす。 「あ、ちょっ、待っ」  べち、と間抜けた音が頬で鳴った。何度も言うが今の彼女はろくに力が入っていない。  緩んだ頬は口元を抑えていたおかげで見られずに済んだが、とうとう居たたまれなくなったアニが顔を胸元に押し付けてきたあたりで、目元のほうが緩んでしまってどうしようもなかった。 「……とりあえず、舌はだめだって、アニ」  死んじゃう、と呂律の怪しい声で訴えると、うるさい、と掠れた声がくぐもって聞こえた。  ヒリつく舌の感触を口内で確かめながら、口を覆っていた手で羞恥に震えるアニの頭を撫でる。 「とにかく、ちゃんと嫌がってね、ライナーのキス。ライナー可哀想だけど」  もぞもぞと首肯したアニの耳がまだ赤い。真っ赤だ。おいしそう、などと口にしたら限界どころか怒髪天をつきそうなので黙っておいた。 「それで、アニ、ぐっときた?」 「うるさい」  ぐうで鳩尾をやられた。想像以上の威力だったが彼女お得意の蹴りほどではなく、凶暴な照れ隠しに微笑ましくなるくらいの余裕はあった。  ライナーに言いつける、とアニが呻く。さっきの今で話の順序が若干おかしいことになっているが、可愛いからまあいいか、とベルトルトは理屈など無視して笑っていた。
(2013/09/01)
同郷を疑似兄妹として愛でてたんだなというのがよくわかる。今となってはアニはふつうに嫌がりそうだけどライナーはやりそう。

back