目蓋に虚実、右手に花を
 殺されるなら、と彼女はなんてことのない声で呟いた。 「殺されるならあんたみたいなやつがいい」  なんとも殺風景な声であった。夕飯は今日こそ味があるといい、明日は晴れすぎないでほしい、そういう言い方である。  訓練兵たちの声を他人事のように遠くに聞きながら、アルミンは隣に座る少女の横顔を窺った。彼女はいつもと変わらずつまらなそうな顔をしている。 「アニ、殺される予定でもあるの?」 「そんな物騒な予定は持ち合わせてないけどね」  前のほうからエレンの声が聞こえる。まだまだ、とかいう熱い声だ。日頃彼の相手をしているアニはここにいるから、相手は大方ライナーかミカサあたりだろう。無事に終わるといい。 「あんた調査兵団志願するんだっけ」 「ああ……、うん、まあ。アニは憲兵団?」 「一応ね」 「こんなとこでさぼってていいの」 「あんた、珍しく絡みにきたと思ったら説教垂れにきたわけ」 「いやいや」  軽く流すとあんたこそさぼってていいのと聞き返された。よくはない。けれどさぼらなかったところで貰える点数などたかがしれている。意味もなく痛い思いをするのが嫌な時だってある。 「アニってさぼるの上手いし、アニといれば教官にも見つからないかなって」 「あんた結構いい神経してるよね」 「褒め言葉? どうも」  アニは胡散臭げにアルミンを一瞥して、それきり無理に話題を広げることもなく口を閉ざした。アルミンは彼女のこういうところが心地よくて好きだ。  彼女は会話の切れ目を気にとめない。沈黙があっても気まずそうにしない。一人を好むが人が寄ってきても邪険にはしないし、不可解そうな顔はするが、話しかければそれなりに喋る。おそらく人付き合いや会話に関して苦手なのではなく横着しているだけだ。とつとつと話す声も口調も、沈黙へのほどよい無頓着も、静かで好きだった。周囲が濃ゆい顔ぶればかりのアルミンにとって、こういった素朴な空間は貴重ともいえる。 「さっきの続き、聞かせてよ」 「あんたに殺される話?」 「いや、殺す予定はないけど……」  さわりと乾いた風が間を抜けていった。揺れる彼女の後れ毛と、白いうなじに目がいってアルミンは慌てて視線を逸らす。やわらかそうな頬の産毛。女の子はどうしてこんなに全部がやわらかそうなのだろう、と思考がふわつく。  アニがちらと視線を寄越した。思わずどきりとして、なになに、と続きを促す。 「別に。巨人に食われにいくあんたらと違って、私が殺されるとしたらきっと人間だろうし、だったらせめて名前くらい知ってるやつに殺されたいと思っただけ」 「ええ……なんか物騒というか飛躍してるなあ。アニって実はすごく頭いい?」 「こういうのはひねくれてるって言うんだよ」  不愛想に応じながら、けれど彼女の口元がすこしだけ緩んだ。つられてアルミンもすこし笑う。 「というか、エレンじゃなくて僕? ミカサとか、あとほら、仲の良い、ミーナとかさ」 「エレンは女の扱いがなってないからね、野暮な殺し方しそう。ミカサは論外というか人外だし、あとは、ミーナもそうだけど、人なんて殺せないようなやつばっかりだ」  言いながら彼女は足元の雑草を爪先でつつく。手持ち無沙汰だからと踏みにじらないあたりが、口にする物騒な台詞と相反してなにかいじらしい。 「あんたは頭がいいから、切り捨てると判断したらちゃんと切り捨てるんだと思うよ。腹も据わってるし、いざとなれば人も殺せるんじゃない」 「それって褒められてるのかな……」 「それに」  ふと、彼女の瞳が遠くを見るように凪いだ。波の立たぬ水面に、どこか寂寥の色が見える。 「それに、あんたなら、だれかを殺したあとに、泣いてくれそう」  残酷な話をされているはずなのに、現実味も、深刻味も、まるでなかった。全体的に重要なはずの感情が欠如している。  何より泣いてほしいだなんて微塵も思っていないような声である。それなのにアルミンは、彼女を手にかけることは許されても、泣かないことのほうが許してもらえないのではないか、と漠然と思っていた。 ***  そうして実際、彼女に引導を渡したのはアルミンであった。  一生忘れないのだろう、とアルミンはひとつの諦観を抱いていた。アニが兵士でなくなった瞬間、人間でなくなった瞬間の、あの記憶をきっとずっと忘れない。  彼女がああも感情を表出できるだなんて知らなかった。怯えた双眸、嘲る声音、おぞましく歪んだ口元。何より欠如していたはずの感情が、あれは、たしかな殺意だった。  感情がそれだけで完結しているならまだよかった。優しくも弱い彼女の内側には、殺意への覚悟があった。悲嘆もあった。羨望と絶望まで生まれて、彼女の感情は歪んでこぼれた。  たったの一瞬であんなにもいびつな情動を見せた彼女は、今、嘘のように静かに目を閉じている。  ひんやりと静かな地下室に、コツ、とブーツの音が響き渡る。アルミンの表情は凪いでいた。  目を細めるように見上げて、美しい少女を覆う水晶体に手を伸ばす。沈黙と同等、あるいはそれ以上に、無機質な接触。 「アニ」  アルミンはすでにいくらかの感情を消化させていた。擦りきれたと表現してもいい。この少女の言った通り、切り捨てるべきと判断したから切り捨てた。彼女のこともいくつかの感情も切り捨てて、そのくせ、いつかの純情だけは往生際悪く。 「これじゃあ殺してあげられないよ」  物体の表面をそろりと撫でる。かたくて冷たい。中にいる彼女は変わらずやわらかそうなのに。 「いつか、出ておいで、アニ」  アルミンは息を吐くように呟いた。息苦しかった。彼女が出てきた時がこの感情の最期だ。きっと彼女の最期だ。  アルミンはすでに決めていた。  自分の知らぬところで自分の知らぬだれかにだなんて、考えるだけでもぞっとする。アニの望みを叶えるのは自分でなければいけない。彼女がそう望んだ。この子は誰にも渡さない。  手を下すのは自分だ。そんな自分を誰よりも先に見つけてくれた彼女への、なけなしの独占欲。アルミンはずっと無性に泣きたくて、ずっと泣けずにいる。 「僕がきみを」  僕がきみを殺してあげる。  嘘をついて、嘘をつかれて、彼女をここまで追い込んだのは自分で、それでも泣くことくらいは許されるだろう。手にかけた事実を引っ提げていれば泣くことも許されるだろう。 (——ぼくはきみを)  ただ、一度でいいから、きっとやわらかい身体を抱き締めてみたかった。運がよければ色づくやわらかい頬にも触れて、触れさせる薄い唇もきっとやわらかくて、もしかすると目眩がするほどやわらかい微笑みだって。  拙い独占欲と、無惨な純情が、地下の闇にじんわり溶ける。  出ておいで、とアルミンはもう一度願う。  誰よりも先に抱き締めて、誰よりも先に息の音を止めて、それから、感情もからっぽにしてしまうくらいに泣いてしまいたかった。
まさか本当に通いつめているとは夢にも思わない健やかな頃

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