不粋なファジィ・セオリー
すべての人間は二種類に分けられる。
課題に飽きたコニーが顔を上げると厳粛なるゼミ室にはそんな光景が広がっていた。斜向かいに位置するマルコとクリスタはいまだ真剣に生徒指導案をつくっていたし、左隣のサシャと真向かいのユミルは突っ伏して寝ている。
とはいえ実際、課題の面倒を見ているハンジとペンを転がしたコニーもいるため、厳密には人類は二種類ではなかった。もちろん厳粛でもない。
「あれ? コニーも脱落?」
顔を上げたマルコが可笑しそうに指摘する。コニーは休憩休憩と口を尖らせた。
「だいたいお前らついさっきゴリラの突撃があってよく集中力持つよな」
「ああ、あれ、びっくりしたよね」
ライナーがゼミ室に突っ込んできたのは三十分ほど前のことだ。アニを探していたらしいがそうとは思えぬ形相で、彼女がゼミ室にいないと知るやさっさと引き返してしまった。ユミルでさえも言葉を失っていたくらいだからよっぽどの差し迫りようである。
「ああ、そういえばゆうべひと騒動あったんだって?」
「耳早いですね、ハンジさん」
「まあね。クリスタから事情だけね」
寝不足だっていうから、とハンジが言う。確かに昨日、というかほとんど今日だが、人騒がせな外泊事件のおかげでここのゼミ生のほとんどが寝不足である。
コニーの家で飲んでいたライナーとベルトルトが、家にアニがいるからと帰ったのがまだ日付を跨ぐ前だった。残ったマルコとジャンと三人で飲んでいたら三十分後にアニがいないという連絡がきて、だらだら漂っていた酒気が一瞬で吹き飛んだ。
幸いジャンがバイクを駆らせる前、及びクリスタが寮を飛び出す前にアルミンと連絡がつき、一連の騒動はアニの無断外泊事件ということでひとまず幕を閉じた。とコニーは解釈していたのだが、残念ながら、閉じきっていなかったらしい。
コニーの回想をぶち破る形で、ばたんと盛大なドアの開け閉てがゼミ室に響いた。
「おい待てアニ!」
うわあ、とコニーは全力で引いた。おい待てアニというライナーの台詞もその語尾にうわあという悲鳴がくっついている。一瞬の間にいろんなことが起こりすぎてうわあ以外の感想が持てなかった。
「う、うわあ……」
さしものマルコもドン引きである。唯一クリスタだけがライナーへの感情移入に成功したらしく、愛らしい面差しを痛そうに歪めさせていた。
状況を説明すると、まず、ゼミ室に飛び込んできたアニがドアを後ろ手に閉めかけ、閉めきる前にライナーが追いつき、拮抗するドアの押し合いはアニの冷静極まりない判断力でもって早々に打ちきられた。勢い余ったライナーは次の瞬間にはアニの華麗なる足技がかけられていて、ドアの向こうにお約束のポーズで落下した。コニーのうわあ、はこのあたりのものである。最後にばたんとドアが閉められご丁寧に鍵までかけられた。
「……ああ、あー、もう、うるせーな、なんだよ」
あたかも正当な眠りを邪魔されたかのようなユミルも随分だが、この騒音下まだ寝息を立てているサシャもすごい。コニーは一種の感動さえ覚えた。
「——あ、あの、アニ?」
「ベルトルトは?」
「え? いや、来てないけど」
はあ、とアニが盛大な溜め息をつく。寝起きだったはずのユミルが途端に目を覚まし、ははあとアニを振り返った。
「お前、まだあの二人と話してないんだろ」
「えっ」
「え、まじか」
ドアに背を預けたままのアニが屹然とユミルを睨み付ける。これでは図星と言っているようなものだ。
まじか、とコニーは呟き直す。ゼミ生の面々にはすでに彼女から騒がせたごめんと比較的殊勝な謝罪が告げられている。
「えっと、昨日って結局、アルミンの家に泊まったんだよね?」
クリスタの控えめな問いかけに、アニがためらいがちに顎を引く。まあ座れよとユミルが隣の椅子をアニに勧めた。
「あの二人今日は一限ある日だもんな。さしずめ時間ずらしてあの二人が家出た頃合いに帰ったんだろ。お前今日三限からだっけ」
「おかげで今日一日追いかけっこだよ」
「いや自業自得じゃねえの……」
コニーは頬杖をついて呆れた。ハンジが空気を読まずにけらけら笑っている。
「アニ、私が口出すのも何だけど、早く謝っちゃったほうがいいと思う」
「僕もそう思うよ。ライナーもベルトルトも本当に心配してたんだからね」
「わかってるけど」
「ツンデレこじらしてる場合じゃねえって」
「うるさい芋」
「すいません」
なんだ、なんで俺だけそういう感じなんだ、とコニーは釈然としない。が、今のはコニーが悪いよとマルコにそっと耳打ちされた。なんでだ。
「消化しきれないって顔してるね」
ハンジがアニの仏頂面を指摘する。消化しきれないのは自分の扱いのほうだ。
「あの二人って君の保護者なんだっけ? そういうお年頃? 保護者がウザイ?」
「——っていうか、保護者面が」
「保護者面ねー」
「で、でもアニ、一緒に暮らしてる女の子が黙って他の人ところに泊まっちゃうなんて、誰だって心配するよ」
「でもアルミンとはやってないんだよ」
「下ネタぶっ込むな」
話ややこしくなんだろ、とユミルがいさめる。彼女にしてはまったくの正論であったが、そうかやってないのか、とコニーは心底アルミンを尊敬した。
「一晩据え膳? すげえなアルミン……」
「そういう男だよ。真面目っていうか律儀っていうか」
「誠実って言っといてやれよ。アルミンならそれで許される。アイツだとただの腰抜けだからな」
「ベルトルトはたしかに腰抜けだね」
「ベルトルト泣くぞ」
コニーは今度は美化すら許されぬベルトルトに同情した。
「ライナーもそんな感じだろ?」
「わっ、私はライナーとはまだそこまで——」
「まだって」
「そこまでって」
自爆した女神は耳まで真っ赤だ。女神が自爆するいわれなどない。あのゴリラこそ爆発しろよ、とコニーは胸中で毒を吐く。
微笑ましいねえとハンジがにこやかに見守っている。まともなマルコは苦笑いだ。
「好きだの何だの小っ恥ずかしいことは言えるくせにさ」
「ああそうそれ、それな。わかるわかる。今度飲みにいくか」
「……べ、ベルトルト、好きとか言えんのか」
「まあな、おおむね駄目なやつだけどな」
よもやこんな形で女子会が実現されようとは思いもしなかった。私も行くとまだ赤いクリスタが身を乗り出したことは幸いだが、どうにも議題と顔ぶれが物騒でいけない。
「私もいきますっ」
「うわあ! お前いつから起きて」
知らぬ間に覚醒していたサシャまで立候補する始末である。いやお前行ってどうすんだよ、とコニーは寝惚けているようでもない彼女をたしなめる。
「いいか、お前、あの女子会は顔ぶれこそ男顔負けだが勝ち組の女子会だぞ。リア充だ。青春より芋なお前が行ったところで芋食うしかやることねえぞ」
「軟骨のほうが定番じゃない?」
「ハンジさんちょっと黙っててください」
「ひつれいですねコニーは。私だって好きな人くらいいますよ」
「え」
「えっ」
「は?」
コニーはまず驚嘆よりも感嘆した。すごい、あのアニまで口を開けている。ここまで色恋を意外がられる生き方もそうそうできたものではない。
驚いていた総員が、やや置いて、気遣わしげにコニーを見てきた。これは、ちょっと、どういう意味だろう、とコニーは混乱する。
「……な、なんだよ、俺は別に——」
「あ、待て」
と、おもむろに立ち上がったユミルがゼミ室のドアに向かった。アニが身構える。いやそんなまさかとコニーが半信半疑で事態を見守っていると、なんと本当に廊下からばたばたと足音が聞こえてきた。
ユミルが素早い動作でドアを開ける。げ、と声を上げた彼女は同様に素早い動作でドアを閉めた。
閉まりきらなかったドアの下方に、言及するまでもない人物の爪先が覗いていた。
「あいたたたたたたユミルちょっとまって足がちょっと」
「何の用だよ正気か? ドアぶっ壊す気かよ」
「違うよ! アニがそこにいるのはわかってるんだ!」
「会話しろっつーの」
わかるものなんですかね、とサシャは呑気にあんパンをかじっている。可能性としてライナーがまだ廊下に転がっているということが考えられたが、いくらなんでも信じたくはなかった。
「アニ! 怒ってないから出てきなさい!」
「俺、明日からベルトルトのことオカンって呼ぶわ」
「やめてあげなよ……」
マルコのその台詞はおそらくベルトルトに向けるべきだ。ベルトルトのほうこそやめてあげるべきだ。スンとした顔をしているがいくらなんでもアニが可哀想だ。
「ベルトルさん、アンタいい度胸してんじゃねーか。この私の前でよその女追っかけるとはな」
「愛してるよユミル」
「うるせえ唐変木」
なるほど駄目なやつだ、とコニーは数分前のユミルの言い分を思い返して納得する。
「なあ、とりあえず、コイツあとで引きずってでも連れてくから、お前今はライナー連れて帰っとけ。家で待ってろ」
「でもユミル」
「コイツの性格なんてお前らもよくわかってんだろ」
真面目なトーンに移ったユミルが惚れ惚れする要領でベルトルトを説得する。しぶしぶといった体ではあったが、わかったよ、と告げたベルトルトにコニーは舌を巻く思いであった。ユミルかっこいいと女神が惚気る。
ベルトルトの爪先を押さえつけていたドアを軽く引き、ユミルは顔だけ覗かせて保護者二名が引き取る様を見送っていた。当のアニは居心地悪そうに縮こまっている。
「……まあ、君らの関係性とかルールとか、私はよく知らないけどさー」
傍観を決め込んでいたハンジが口を開いた。こうなるとコニーの出番はなくなるわけで、おいあんパンちょっとくれよとサシャにダル絡む。
「やったとかやってないとかは関係ないんじゃない?」
「ハンジさんもうちょっとオブラート、オブラート」
「食い違ってると思うんだよね。君はさ、彼氏との関係性に口出しされるのが嫌で意地になってるんでしょ」
ゴリラの襲撃に始まり、物騒な女子トークとベルトルトの駄目っぷりとユミルのイケメンの件を経て、この真っ当な説得モードに辿り着いた事実がコニーには信じられなかった。神経構造がたぶん違うのだ。あの女子トークもこの説教モードも彼女らにとっては大差ないに違いない。
「泊まる先が女の子のところでも同じだったんじゃない? まあ、そうだったとしたら君のほうもちゃんと連絡入れてたんだろうけどさ」
「そうそう。そういう意味じゃ今回はお前が悪ィよ。ちょっと姑息だな。ベルトルトだってやましさ関係なく連絡してんだろ」
「アニ、ライナーとベルトルトがわざわざ終電で帰ったのも、君が家で一人だからって理由なんだよ」
アニがどんどん小さくなっていく。人のことはあまり言えないがただでさえ小さな体が。
よりにもよって反論のしづらい顔ぶれにこぞって説教をされて、さすがのアニも反駁しづらいのだろう。女神のすべての懇願を含んだ、アニ、という切実な呼び掛けもそれなりの威力だ。
極めつけに、本日ようやくまともな扱いを受けたドアから、アルミンが顔を覗かせた。
「ああいた、アニ!」
「——アルミン」
「帰ろう。僕も一緒に帰る。ベルトルトとライナーに謝りにいこう」
アルミンがごく自然に手を取ってアニを立ち上がらせる。あまりに自然すぎてアニも素直に立ち上がったほどだ。すげえ、とコニーは思わずあんパン争奪ダル絡みを放棄してしまった。
「……うん」
アニがもそもそと鞄を引き寄せる。アルミンはアニの手を引きながら、去り際、ゼミ室の面々ににこりと微笑みを残してドアを閉めた。
「……俺、明日からアルミンのことナウシカって呼ぶわ」
「メーヴェ乗れますかね」
「そういうところどんくさそうだからな」
活躍のわりに散々な言われようである。コニーはあんパンの未練が断ち切れずに鞄を取ったものの、十数えてから生協にいこう、と念のためドアのむこうを警戒した。