闇にこぼれた
 壊れてきてる、とベルトルトが嘆いた。  ああ、とアニも嘆息で応じる。まったくの同感であった。 「ライナーが」 「うん」  少し離れたところ、闇のなかでも彼が途方に暮れているのがわかる。アニのほうはそれらしい感傷もなかった。ライナーの現状について抱く感情は落胆に近く、やっぱりな、という思いが込み上げる。あの男はそういう男だ。 「自覚あるのかな」 「どうだろう、ないようにも見えるけど」 「まあ、あんたがそう見るならそうなんじゃない」  アニは腕を組んで木の幹に頭を預けた。柄にもなく疲弊の色が声に滲んでいる。 「うすうす危うくはあったよ。あいつの性分じゃ、ある意味、すごくらしいんじゃない」 「冷静だなあ、アニ」 「そうかな。そうでもないけど」  動揺してるよ、とシニカルに笑う。真に受けたベルトルトがまた不安げな顔をした。  なにか空々しい。  だってアニは動揺しているし、ベルトルトは本当は不安がってなどいない。ベルトルトのそれはただ単にアニを気遣う表情だ。  彼の根底にあるとすれば、不安でも動揺でもない、悲嘆とか、諦観の類いであろう。 「……ライナーは、人間に壊されてる」 「ああ、それ、面白いね」  アニの気のない返答に、ベルトルトが気休め程度に笑い返す。けれど、面白い、というそれは本心だった。  人間を壊しにきた戦士が人間に壊されていく。強さはやさしさで、優しさは弱さで、ライナーはだから、かわいそうなことに弱かった。いつかアニに向けて、兵士は向いてないと言葉を投げた彼は、彼のほうがよっぽど戦士に向いていない。 「その点あんたは心配いらなさそうだし、配属はやっぱりあんたがライナーについてなよ」 「それは構わないけど、ひどいな、僕の心配はしてくれないんだ」 「あんたの心配するくらいなら自分の心配する」  三歩ほど離れた位置の、アニよりずっと高いところにある双眸が物言いたげにアニを見た。アニも負けじと彼を見つめかえす。三歩の距離は、つまり、これ以上近いと見上げるのも億劫、という距離だ。 「私だって到底あやしい。一回ほだされてるわけだし」 「アニは優しいからね」 「うるさいな。私が心配なのは、ライナーが壊れて、私が折れた時のことだよ」  そうなった時のあんたが心配だ、と肩を竦める。  ベルトルトはしばらくきょとんとしていた。 「……そういう、縁起でもないこと言うなよ、アニ」 「別にあんたの拠り所の心配をしてるわけじゃない。私たちがいなくなった時、あんたが何を考えるかわからないって話」  ライナーとベルトルトはある種真逆の性質をしている。他人に対して一歩、また一歩と踏み込むライナーに対して、ベルトルトはわかりづらい防衛線を頑なに張り続けている。防衛線の内側は彼だけの領分だ。彼の思考も、感情も、意志も、外側からでは到底読めやしない。到底揺るぎやしない。  アニは心配だと表現したが、それは少し、怖ろしい、という感情にも似ていた。 「……いざとなったら、たぶん、あんたが要だよ、ベルトルト」  アニはついと目線をあさってのほうに向けた。  ざり、と地を踏みしめる音がして、眼前の気配がゆっくり迫る。  遠くへ向けていた視線を戻すと、目元を歪めたベルトルトがアニを見下ろしていた。それを無感動に見上げながら、だからこの距離は首が痛いんだって、と胸中で毒づく。 「……何」 「アニが壊れたら、きっと僕も壊れる」 「何言ってんの?」 「僕がまもるよ」  指の長い、どこかひんやりした手のひらがアニの頬を捉えた。両手で包み込むように視線を絡ませて、ベルトルトが少し屈む。  こういう時の彼の瞳は昔から苦手だった。防衛線の内側を見せる深い瞳。深い闇。腹の底など到底見えやしないくらい瞳。  この男はこわい。 「――いいよ、そういうの。女々しいな」 「ひどい」 「私は壊れたりしないよ。ライナーと違って強くはないからね」  ベルトルトは少し笑っただけだった。アニは強いよ、と切り返すようだった引っ叩いてやろうかと思っていたが、案外賢明である。  彼の言葉を反芻させる。守るとうそぶく彼を、では誰が守ってやれるのだろう。  取り残されるとしたらこの男だろうな、という漠然とした予感を、アニはライナーに違和感を覚えた頃からぼんやり抱き続けている。 「……私があんたを守ってやれたらよかったけど」 「なにそれ?」 「別に。とにかく、あんたはライナーを見ててやりな。 私の心配は思い出した時くらいでいい」  ベルトルトは何か言いかけて、けれど噤んで、という仕草をした。言いたいことなど容易に想像できたが、ベルトルトのほうもアニがその言葉を受け入れないであろうことを想像できたに違いない。  アニは頬に添えられたままの右手を、大きさも力もまるで及ばぬ手でやんわり取った。 「私もあんたらの心配はしないから」 「……うん」 「大丈夫、きっと帰れる」  うん、と息をついたベルトルトが、右手でアニの手を絡め取り、口許に寄せた。手のひらへのくちづけは何だったかな、と詮ないことを考えながら、アニは静かにそれを甘受する。  嘘など吐き慣れていた。不安なのは自分のほうだ。  壊れていくライナーも、それを傍で見つめるベルトルトも、到底強くなれぬ自分自身も、ずっと不安でこわくてたまらない。早く帰りたい、はやくかえろう、と泣き叫ぶ心のどこかを、アニはひとつ、細い嘆息で殺した。
(2013/07/06)
当時は初々しいベルアニが初々しくライナーに応援されてるのが主流だったと思うんですが一方そのころわたしは傷を舐め合うベルアニに夢を見ていた。

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