カシュマールのささやき
どうして泣くの、ベルトルトのやさしい声が、ひんやり冷えた倉庫にこぼれ落ちた。
彼女は首を振る。膝に埋めた小さな頭がかすかに揺れた程度だった。力なくうずくまるからだは、たしかに、泣くほどの気力すらないように見えた。
どうして、とベルトルトは細い肩に手を伸ばす。どうして泣くの。どうして悲しいの。無遠慮に触れた肩がひくりと震え、髪の合間から感情の薄い瞳が覗いた。
「アニ」
連日続いたトロスト区の死体処理で、肩を並べる同期たちもおおよそ彼女と同じ顔をしていた。無惨な死体を映し続けた双眸は精気をなくし、感情は擦りきれ、こびりつく死臭に悪夢をみる。その悪夢はけれど、大概が現実だったりする。現実のほうがよっぽど悪夢だった。
たしかに凄惨な光景だった。少し記憶を遡れば談笑を交わしていた同志たちが、体をちぎられ断末魔をあげて食われていく。気が触れてもおかしくない。それはベルトルトにだってわかる。
けれど、自分らは違う。
ちがうだろう、とベルトルトはアニの頬に触れた。
「だって、僕らが、殺したんだよ」
なのにどうして泣くの。
触れた頬は濡れてはおらず、けれど冷たく、少し気持ちよかった。
彼女の、きれいな瞳にひびが入る。
ああ、こわれてしまう。
ベルトルトは眉尻を下げた。
「アニ、きみが殺したのに」
「や、やめて」
「何がそんなに悲しいの?」
整ったかんばせが、ゆるやかに引き攣っていく。
やめて、と掠れた声が懇願する。
懇願したいのはベルトルトのほうだった。
凪いだ感情が重苦しく何かを訴える。諦観か、落胆か、恐怖か、悲嘆か。この少女への息苦しいほどの何かが。
ベルトルトはもう片手を添えて、すべらかな頬を掬い上げた。
「アニ、どうして」
「うるさい、わかってるよ、こんなの」
「アニ」
「わかってるよ、なのに、わけわかんない」
もうやだ。もう嫌だ。
もどかしげな声が、およそ彼女らしからぬ言葉を吐き出す。ベルトルトは目元を歪めた。
切り捨てなければならぬ感情まではわかっているのに、切り捨てられぬ自分を扱いかねている。ふたつの心が呵責を起こしている。この歪みかたは、残念ながら、覚えがあった。
「……きみまで壊れてしまうの、アニ」
「ベルトルト」
「きみまで、彼らに、人間たちに、壊されてしまうの」
ひくりと息を飲むように口を噤んだアニに、ベルトルトの背にぞわりと怒りが走った。
諦観でも落胆でも恐怖でも悲嘆でもない。彼女へのたしかな独占欲だった。
(どうして)
乱暴に頬を引き寄せた。
齧り付くように呼吸を塞ぐ。
「ッ」
瞠目したアニが防衛本能で身を引かせた。ベルトルトはそのぶん体を寄せてさらに唇を押し付け、悲鳴を上げかけた小さな口の端から舌を押し込む。
うずくまっていたアニの足が暴れる。やみくもに抵抗する指先が頬を引っ掻く。ベルトルトはけれど、細い腕を捕らえて小さな身に覆い被さり、抵抗ごと力ずくで押さえ込んだ。
「……っやめ、やめて!」
「アニ」
「ベルトルト、あんた、おかしいよ、なんでこんな」
おののく瞳をひたと見据えたまま、おかしいって何が、とベルトルトは口を歪めた。
アニの纏う空気が張り詰める。舐めたらきっとひんやり冷たいのだろうな、と透き通った蒼に思いを馳せた。
「……あんた、こわいよ」
「どうして? 人間に壊されるほうがよっぽど怖いよ」
くっと顎を上向かせて白い首筋に歯を立てる。皮膚越しに彼女の呼吸が伝わってきた。緊張に強ばる不規則な呼吸。この息の緒を掻き乱すことも止めることも、到底誰にも許せたものではない。考えるだに頭がおかしくなりそうだ。
ましてやライナーを壊した奴らになど。
「ねえ、アニ」
大丈夫だよ、と噛んで含ませる。こわくないよと言い聞かせる声は、やわらかな頬を撫でる掌と同じほど優しい声だった。
いつからだったか、彼女の前での自分がいちばん優しくあれるのだと、ベルトルトはくすぐったいほどに自覚している。
「先に壊してあげる」
だから泣かないで。
華奢な咽頭を大きな手のひらで包み込み、まっさらなうなじに食らいついた。
(2013/09/29)
かつて彼には病ンデルトという異名があったと記憶しております