愛猫気取りの知るところ
伸ばした指が探り当てたのはベルトルトのシャツで、アニは半分寝たままの頭でそれを引き寄せた。
もぞもぞシーツから這い出てシャツを被る。這い出る途中に巻き付いたベルトルトの腕は適当にあしらった。ベッドを下りる前に下着が目についたので一応身につけて、ブラは遠くて手を伸ばすのが億劫で諦めた。まちがいなくベルトルトには叱られる格好だが寝ているので問題ない。狭い部屋を横切りのろのろとキッチンへ向かう。
ぼやけた頭でグラスに麦茶を注いで一気に飲み干す。少し頭が冴えた。そのままふらふらと部屋に戻る。
ふらふらした往復と水分補給のちょっとした時間だ。
そのちょっとした時間のうちに、ベッドの上では芸術作品への第一歩が踏み出されていた。この男の寝相を芸術的と評したのがジャンだったのかコニーだったのかは忘れたが、アニにはその芸術性がまったく理解できない。たぶんピカソみたいなものだ。端的に言うとすでにアニの寝るスペースはなかった。
「ベル、ねれない」
詰めろばか、と不機嫌な声で罵る。うんと呻いたベルトルトは何をどう捉えたか芸術作品へのもう一歩を踏み出した。アニの要求は芸術作品を完成させることではなく跡形もなく片付けてもらうことだ。何よりまだ眠い。
仕方なく足を持ち上げてベルトルトを蹴飛ばした。いて、と声をあげた彼にもう一発、気付けのつもりで足蹴を見舞う。
「痛い! ちょっとアニ! 起こし方考えてっていつもいってるだろ!」
「あんたこそ寝方考えてくんない」
「考えてるよ。でも考えてどうこうなるものじゃないよ。理不尽だ」
「不当に寝る場所取られる私のほうがよっぽど理不尽だ」
文句を言いながらベルトルトが壁際に身を引く。空いたスペースに潜り込み、アニはもぞもぞと二度寝に落ち着ける体勢を探した。
「だっていちいち布団敷くのも面倒だし」
「知らないよ。それでいいってこの部屋空けたのあんたでしょ」
「でもたまにはベッド使っていいって言った!」
「言ったけど占領していいとは言ってない」
落ち着いたにも関わらず狭い隙間を埋めるようにベルトルトに引き寄せられてしまった。窮屈だ。肘で押し退けようとしたが彼の腕も案外強情で、アニは息をついて抵抗を諦める。
「……ねえ、ベルトルト、引っ越そうよ」
「え? 急に?」
「急っていうか、来年からあんたも社会人だし、もうちょっと広いとこがいい」
そうだねえ、と応じたベルトルトがアニの髪に鼻先を寄せる。くすぐったいと身を捩っても取り合ってくれない。この男は何かとアニのむずがりを照れ隠しと捉える迷惑なところがある。
文句を言ったところでどうせ埒が明かない。仕方なく放っておくことにした。
「じゃあばたばたする前に部屋探さなきゃ。アニと僕が仕事通いやすい場所だと便利だよね」
「あと別で寝れるところ」
「え」
ぴくりと彼の動揺がシャツ越しに伝わってきた。頭をずらして見上げると、それはちょっと、という顔をしている。アニは目をすがめた。
「……文句あんの」
「……ベッドひとつじゃダメ?」
「何のために私がこの話してると思ってるわけ?」
「し、幸せ家族計画的な」
「幸せなのはあんたの頭だよ」
ぎりと脇腹をつねってやった。痛いと悲鳴を上げたベルトルトがアニの手を掴む。
「だってさ、アニと一緒に寝る口実が」
「ばかじゃないの」
そのまま口元に持っていかれた指を食まれ、甘い痺れが背筋を走ってげんなりした。アニは殊に冷たい口調でやめてと吐き捨て、ひどいと笑うベルトルトから手を引き抜く。
「寝てる間にあんたに押し潰されるなんてごめんだよ」
「え? でも僕、アニと寝てる時は寝相いいじゃない」
「は?」
「でなきゃアニとっくに潰れてるよ」
自分でいうな、という突っ込みを口にし損ねて、何言ってるんだこいつという疑念と、なるほどたしかにという納得が数秒だけ拮抗を見せる。アニの顔はどちらかというと何言ってるんだこいつ寄りの表情である。
「こうやってアニ抱き締めてると寝相ひどくならないみたい。不思議だよね」
「じゃあ次の誕生日は抱き枕用意しとくよ。ライナーでもプリントしたやつ」
「え、だったらアニの抱き枕のほうがいい……」
「は? 本人いるのに? わざわざ抱き枕のほう抱いて寝るわけ?」
「あ、アニちょっとそれすごいかわいい」
「蹴るよ」
「痛っ」
足を蹴ったついでに背を向けた。ひどいなあというベルトルトの悠長な声が肩越しに聞こえたが、どう頑張ってもひどいと思っているようには聞こえない。
後ろから腕が回ってくる。頭にくちづけたベルトルトが、じゃあさ、と機嫌の良い声で言った。
「間とってベッド買おうよ。新しいの」
「……大きいやつ?」
「そう。よくわかったね」
「あんたなら言いそう」
撥ね付けたつもりだったが彼に効果はなかった。お見通しだ、とアニの頭上で笑っている。
「そうすればアニと一緒に寝れるし、占領しないし」
「あんたが占領しきらないほどのベッドなんてあんの」
「あ、でも広すぎてもやだよ。アニすみっこいきそう」
「注文めんどくさいし私はチンチラか何かか」
「猫のほうがアニって感じじゃない、さっきも仔猫みた——あいたたたたたた」
がすがすと無駄に長い脚に何度か蹴りを入れた。先刻とは程遠い意味でシーツが波打つ。例によってこの男はアニの足技をも照れ隠しと捉えているわけだが、これに関しては、癪ではあるがおおむね正解である。
ベルトルトはごめんごめんと心にもない謝罪を吐きながらアニの肩を引き、仏頂面のまま向き直ったアニに改めて腕を回した。
「部屋よりベッド探すほうが時間かかりそうだなあ」
「部屋探すのが先だからね、言っとくけど」
「わかってるよ。あ、引っ越しライナーたちに手伝ってもらおう」
「安上がりでいいね」
狭い。身を捩らせたがベルトルトの腕も相変わらず聞き分けが悪い。無遠慮に抱き寄せられて顔をベルトルトの肩口に押し付ける形になる。さすがに苦しくて脚を蹴飛ばしたら、蹴飛ばしたはずの足に足が絡みついてきて閉口した。
ベルトルトの頭が首元に埋まる。というより唇がアニの首筋を辿る。何か変なスイッチでも入れたか、とアニはベルトルトを押し返した。
「ちょっと、盛んないで、こんな時間に」
「猫のくだりでちょっと。なんだっけ、デグー?」
「いやチンチラ、じゃなくて、チンチラの件はどうでもよくて」
「ああ、それそれ、ゴールデンのチンチラ、かわいいだろうなあ」
そっちか、とアニの脳裏に品の良さげな猫が鎮座する。ちょっとふてぶてしい。確かに通じるものがあるかもしれない。
「それ、私に欲情してんの? 猫に欲情してんの?」
「さすがにそういう趣味はちょっと……」
なんかアニいい格好してるし、とベルトルトがうすっぺらいシャツをついと引っ張る。ついでのようにブラつけてないでしょと指摘されたが、自分の家でくつろいで何が悪いと反論したらベルトルトが負けた。アニの口から発せられた、自分の家、という響きが気に入ったのだろう。
「……ベルトルト、ねこ、飼おう」
「うん?」
でかい掌がシャツの裾から脇腹を撫でる。くすぐったくて身がすくんだ。
「引っ越して、お金溜まって、いろいろ余裕できたら、猫飼おうよ」
「何の?」
「なんでもいい。チンチラでも、サビでも、できればちょっとかわいげないのがいい」
「なんで」
ベルトルトが噴き出した。アニはなんでもと言ってはぐらかす。本当に何でもないような理由である。可愛げのない猫のほうがこの家では上手くやっていける気がしただけだ。
だってそういう相手の可愛がり方はベルトルトはお手のものだし、アニのほうも真似はできないだろうがそういう可愛がられ方なら知っている。親近感みたいなものだ。猫に向かって、かわいくないな、とか言ってやりたい。
「幸せ家族計画?」
「そう、それ」
それでいいや、とアニは言い訳を放り投げる。ベルトルトは馬鹿正直に相好を崩して、じゃあ猫も探さなきゃねと猫撫で声などよりずっと柔い声でアニに擦り寄った。