Rainy Tabby
濡れ鼠が二匹帰宅した。
窓越しに降る雨を見て強くなってきたな、と思っていた矢先に玄関の開け閉てがあり、バスタオルを掴んで玄関に向かうと案の定ぐっしょりしたアニが無言で佇んでいた。ちらと向けられた視線は相当ばつが悪そうで、ベルトルトは苦笑しながらおかえりと彼女を出迎える。
もう一匹の濡れ鼠はアニの腕のなかにいた。本人にとってネズミという表現はきわめて不本意だろうが、そちらの濡れ鼠は同じくぐっしょりしながらもにゃあと声だけはやけに呑気である。
「どうしたの、その子」
「拾った」
「拾ったって……」
「あんたの自転車のカゴにいた」
僕のか、とベルトルトは表情に困った。茶トラだ。まだ小さい。子猫の脚力について予備知識などないけれど、おそらく自力で自転車のカゴになど上がれないサイズである。何より首輪もない。ベルトルトは少し考えてから、ひとまず猫の処遇よりも濡れ鼠をどうにかすべきと判断して、手にしていたバスタオルで猫をくるんでアニに返してやった。
「怒ってる?」
「いや……怒ってはないけど、ちょっと、困ってる」
居間に引き返してバスタオルをもう一枚拾い上げる。黙然と猫の毛を拭いているアニの頭からバスタオルを被せてやって、俯きがちの頭をベルトルトのほうもわしわし拭いてやった。
「牛乳くらいならあるかな」
「……牛乳ってだめなんじゃないの」
「じゃあ水あげとこう。とりあえず風邪ひく前にシャワー浴びておいで」
頷いたアニから猫と鞄を受け取ってひとつ息をつく。風呂場まで続く水滴はあとで拭くとして、水気を含んだ鞄をバスタオルの上に置いて腕の中の毛玉ごとキッチンへ向かう。にゃあにゃあ訴える猫を片手で抱えながら浅い皿に水を注いで、一緒に床に下ろしてやると猫は案外おとなしく水を舐め始めた。
居間に戻って畳まれた洗濯物からアニの部屋着と下着を発掘する。洗濯機の上に着替え一式を置いて、少し迷ってから一応声をかけた。
「アニ、着替え置いとくよ」
「ん」
思ったよりも嫌がられた声ではない。ベルトルトは安心してキッチンに戻った。
ひとしきり満足したらしい猫は皿の前で毛繕いをしていた。呑気だなとその様子を横目に冷蔵庫を開け、ベルトルトはここでようやく食べさせるものが何もないことに思い至る。ひとの食べ物を与えて大丈夫なのか。やっぱり怖いからあとでキャットフードを買いにいこう、と諦めて冷蔵庫を閉める。
「そこのスーパーまだ開いてるし、もうちょっと待っててくれる?」
アニが上がったら買ってくるよと猫の背を撫でる。猫はせっせと毛繕いに勤しみながら、にゃあと応じた。
***
アニがソファの上で威嚇している。
猫ごとぎゅうと縮こまる彼女は手を出せば噛み付きかねない剣幕で、ベルトルトの目には見えぬ毛の逆立つ様相までまざまざと見えるようだった。滅多に怒らせはしないが威嚇はよくされる。けれど実際に逆立ちやしない髪は濡れたままで、ベルトルトはタオルを手にじりじりしていた。風邪をひく。一方の毛玉のほうは目下アニの腕の中で、無理矢理抱え込まれたまま迷惑そうにアニの膝小僧から顔を出している。
「アニ! 髪拭いて! せっかくシャワー浴びたのに本末転倒じゃないか!」
「うるさい近寄んないで、あんたの心がそんなに冷えきってるとは思わなかったよ。だからマルコんとこの犬もあんたにだけ懐かないんだ!」
「か、んけいないだろそれは……! ていうか猫いやがってるから! 離してあげなさい!」
にゃあと一声鳴いた猫はするりとアニの腕を抜けて、ソファから飛び降りると少々どんくさい足取りで床に着地した。どんくさいが本人にとっては大した問題ではないらしく、頓着せず悠々と部屋の隅で毛繕いを始める。少し羨ましい神経をしているかもしれない。
一通りの動作を見守ったアニがえらく剣呑な目付きでベルトルトを睨んだ。思わず負けそうになるベルトルトである。あの神経を見習いたい。
「いいかいアニ、マルコのとこの犬はね、懐かないんじゃなくて怯えるんだ」
「もっと嫌だよ」
人並みに傷付くとかしなよ、と険しい視線が少し緩んだ。同情寄りである。
「犬ばっかりは昔から相性悪いんだよね」
「知ってるよ。あんたが不毛に犬好きなのもしってる」
「うん……我ながら健気だと思うよ」
「どっちかっていうとストーカー気質だと思う」
話がずれた。
とりあえず、とベルトルトは話を立て直す。呑気な猫は視界の隅で他人事のように欠伸をしていた。アニは猫に逃げられたというのに相変わらずソファの上で見えぬ毛を逆立てている。
「さっきも言ったけどこのアパートはペット禁止なんだって」
「だからエサあげるだけあげて元に戻してこいって? あんたはヒステリックな母親か」
「そうは言ってないでしょ。ていうかせめて父親にしてよ!」
「どうでもいいよ。大体この前お父さんみたいって言ったら不機嫌になったのどこの誰、勝手に不機嫌になって無理矢理発散したくせに!」
「ごめんなさい」
というか元の場所に戻したところでベルトルトの自転車である。本末転倒もいいところだ。
ベルトルトはやれやれと息を吐いた。どうにも逸れがちな話の軌道修正を慎重に試みつつ、ついでにどうやら食い違っているらしい話を丁寧に擦り合わせる。
「僕さ、ひとまずキャットフード買いにいこうって言っただけじゃない」
「あとのことはごはんあげてから考えようって言った」
「……ああ、それ」
それか、と得心が行く。確かにその台詞のあとでアニの纏う空気が一変した。猫が迷惑がる暇もなく抱き上げてソファに籠城である。ベルトルトの言い方も悪かったのだろうが、おそらく彼女の早とちりだ。
「アニ、僕は別に——」
「自転車から降りれもしないでさ、ずぶ濡れになって、かわいそうだよ。まだちっちゃいのに。この辺は野良猫もカラスもいるんだ」
「……アニ」
「あのままだったら死んでたよ。ベルトルトの自転車の籠で子猫がしんでたなんて、そんなの、私、消化に困るよ」
「あ、うん、それは僕も困るけど」
どちらかというと消化に困るという彼女の発言のほうが消化に困る。よくわからないが胃にずしりときた。
なんだかんだで優しいんだなあという感動の行き場を見失い、妙な胃もたれを抱えてベルトルトは言葉に困っていた。当のアニはこちらなどお構いなしでしんみりしている。先まで茶トラが顔を覗かせていた膝小僧に自身の顔を埋めて小さくなっている。正直かわいい。かわいいがベルトルトは途方に暮れている。
部屋のすみで我関せずを決め込んでいた猫が、不意にとことことソファに足を向けた。爪を立てながらやや怪しい身のこなしでソファに乗り上がり、ぱたんと尻尾を打って丸くなる。その背中はしっかりアニに密着していた。
ベルトルトは思わず破顔してしまう。
「……やさしいねえ」
感心するベルトルトを律儀に一睨みしてから、アニは不器用な手つきで猫の背を撫でた。わしわしと荒い往復がそれはそれで気持ちいいようで、猫は場違いにごろごろと喉を鳴らす。
「あのさ、アニ。あとのことって、たぶんアニが思ってるようなことじゃないよ」
「……何」
「大家さんにお願いしようかなって。ほら、僕らしばらくしたら引っ越すわけだし、それまでってお願いしてみる」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
くわりと猫が欠伸する。完全に他人事である。呑気な茶トラよりよっぽど手のかかる猫に噛みつかれぬよう、ベルトルトは慎重にテリトリーを越えて彼女の頭にタオルをかぶせた。大家がお人好しであることをアニは知っている。
「明日アニ休みでしょ? 僕バイト夜からだし、いろいろ見に行こうよ」
「引っ越しの話? 猫のほう?」
「両方って言いたいけど時間ないよね、猫のほう優先かなあ。あ、名前つけてあげなきゃ」
「名前よりごはん欲しがってると思うよ」
「わかってるよ。買いに行くつもりだったのにアニが駄々こねたんじゃない」
「——……牛乳切れそう」
「うん、買ってくるね」
タオルの隙間からアニが窺うように見上げてくる。ベルトルトは笑いながらよしよしと撫でてやった。彼女は嫌な顔をしているが振り払う様子はない。
猫を飼うのは初めてだが意外と上手に飼っていけるかもしれない。ベルトルトは気難しい彼女を前に妙な自信が沸いてきて、言ったら蹴られるにやけたら蹴られると自身に言い聞かせながら、表出に困る感情を苦労して消化しなければいけなかった。
マルコのとこのわんちゃんは人懐こいことでご近所でも評判ですがなぜかベルトルトとミカサにだけはなつかない。