レーゾンデートル
雑魚寝なんて到底できやしない夜がある。
夜はすでに深かった。夜闇のなか、夜闇と大差ない色の瞳を開けたまま、ベルトルトはただ呼吸をしている。まちまちの大きさで鼾が聞こえる。寝言も聞こえる。自分のすぐそこで仲間たちはぐっすり眠っているのだ。ベルトルトだってぐっすり眠れる。もしかするともう静かすぎる夜のほうが眠りづらくなっているかもしれない。
仲間の傍で安心して眠れてしまう今が途方もなく不安だ。
同じ空間を過ごす居心地がよすぎて息苦しい。
仲間だから。仲間なのに。
ベルトルトはまだライナーのように自分を見失ってはいなかったが、信用もしていなかった。戦士である自分が他の誰よりも信じておけない。
眠ることが辛い夜、無理に眠っては夢を見た。その夢に怖れる自分がもう信用できなかった。
目を閉ざした暗い脳裏でベルトルトは指をつきつける。戦士のベルトルトに指をつきつける。おまえはだれだ。
ライナーの鼾とジャンの歯ぎしりに耐えられないことにして、ベルトルトは兵舎を出た。
さすがに兵営から出るのは気が引けて、ふらりと裏手のほうへ足を向ける。
訓練兵となってすぐの頃はよくライナーとアニとこそこそ今後のことを話していた。毎回同じ場所というわけにもいかないのに、都合の良さから結局いつも倉庫でこそこそしていた。自分らが唯一安定して戦士としていられる空間だ。その空間を共有する頻度も徐々に減って、最近ではアニもベルトルトもそれを避けている節がある。
「ベルトルト?」
「アニ」
食堂の裏手を通りがかった時、唐突に呼び止められてベルトルトは振り返った。夜闇にブロンドが目立つ。パーカーのポケットに手を突っ込んだアニが緩慢な足取りでベルトルトに足を向けていた。
「何してんの、こんな時間に」
「ちょっとね、雑魚寝がつらくて」
「ああ、わかる」
おんなじ、とアニが無感動に告げる。おんなじかあ、とベルトルトは息を吐いて笑った。
アニはベルトルトを一瞥して、すいと脇を抜けて先を行ってしまう。ベルトルトはその後ろをだらだらついていく。
「なんか、こういうのも、久しぶりな気がする」
「集まったってしょうがないからね」
いちばん手狭な倉庫を通りすぎる。一度使ったがベルトルトとライナーの図体のせいで想像を絶するほど窮屈で、以来一度も使っていない。
アニは何も言わない。ベルトルトもこれ以上話を広げる気が起きない。
いつからかライナーがベルトルトに兵士の話をするようになった。兵士としてのこれからの話をするようになった。
けれどそれはきっかけに過ぎない。たまたま形として現れたからきっかけと呼べただけだ。
アニがミーナという少女と行動を共にすることが多くなった。表情の少ない彼女が、少ないなりに楽しげにしている様子を幾度か見かけた。朝起きるたびに寝相占いの行く末を見守られているのも、さすがに少々辟易したが、不愉快ではなかった。
ひとつの嘘が矛盾を生み出し、やがて呵責へと形を変え、ライナーはそれに耐えきれずついに壊れた。アニは怯えているように見える。自分自身にぶっ壊されたライナーと、自分自身に怯えるアニと、自分自身を信じられないベルトルトだ。集まったところで今後の何を話せるというのだろう。
「でも、そろそろ詰めなきゃまずいよ」
「……ああ、うん。ライナー、大丈夫かな」
「さあ。あいつの正気を願うしかないね」
「アニは?」
結局、奥まったところに位置する、手頃な狭さの倉庫に忍び込んだ。
重たい扉を後ろ手に閉める。アニは隅の木箱をどかしてランプと火元を見つけていた。かつて自分たちが使っていたものではない。閉塞した訓練兵たちは諸々の目的でこういった場所を暗黙下で共有している。
「アニは、大丈夫?」
ふっと心許ない灯りがともる。アニの手元を照らすそれは、かろうじて、彼女の表情をも照らしていた。
「……大丈夫って答えて、あんたは、安心すんの」
「……アニ」
「大丈夫じゃないよ。全然大丈夫じゃない。何も思わないでいられる自信がない。戦士でいられる自信なんてないよ」
だけど、とアニが灯りを木箱の上に置く。灯りから遠のいた彼女の表情が途端に見えなくなった。
「だけど、こんな私たちを見てるあんたのほうが、よっぽど苦しいんだろうね」
アニが抑揚のない声でごめんと言った。ごめん、ベルトルト。ライナーのことを含めての言葉だろう。
ベルトルトはたまらなくなって手を伸ばした。一息に距離を詰めて小さなからだを掻き抱く。抱き込んだ勢いが余ってアニの背を壁にぶつけた。けれどアニは構わずにベルトルトの名前を呼ぶ。ベルトルトも構わずにアニの頭に頬を押し付ける。
「夢を、見るんだ」
「うん」
いつからだなんてもう忘れた。やがてそれを悪夢と呼ぶようになった。たぶんもう限界なのだ。
「ライナーがアニのうなじを削ぎ落とす夢を見た」
「うん」
「きみが、アルミンやサシャを踏みつぶす夢を見た。僕らがミカサやジャンに殺される夢を見た。きみとライナーが僕に刃を向ける夢を見た。僕がアニを」
きみを握りつぶす夢を見た。焼き尽くす夢を見た。食べてしまう夢を見た。
言葉になんてできなかった。おぞましい夢だ。いつまでの自分たちだったら笑い話にできただろう。
アニはそっと息をついて、壁に寄りかかった消極的な体勢のまま、ベルトルトの頭を抱え込んだ。
「……食べちゃえばいいのに、私なんて」
「アニ」
「食べちゃってよ、ベルトルト」
平坦な言葉がすべてを物語っている。
アニが頭をずらしてベルトルトの瞳を覗き込み、ベルトルトはそのまま顔を寄せて口付けた。小さな舌が潜り込んできたが積極的に絡んでくる様子もない。噛み切ってやれば満足するだろうか。
諦観の滲んだキスが苦い。
ベルトルトはアニの頭を抱えるようにして舌を篭絡した。ん、と漏れる声は相変わらず情感が薄っぺらい。食べちゃってよ、という彼女の言葉を反芻する。甘えるのが下手くそなアニの懇願だ、怯える彼女を食べてあげてしまいたかった。だけどそうするとベルトルトはひとりになってしまう。
「……ひとりは、やだな」
「うん」
わかってるよ、とアニがベルトルトの首に縋りつく。荒い吐息が耳を掠める。彼女の背中を支えながら、せめて恐怖や不安だけでも食べてあげられたら、と白いうなじに口付けた。
「……僕のことも、アニが食べてくれる?」
「いいよ」
アニがしがみつく腕を緩めた。
諦めきった視線が互いに交差する。
「全部なくなっちゃえ」
ベルトルトは力なく笑って、今いちど彼女の唇を求めた。
灯りを消さなければ、と兵士でも戦士でもない思考がぼんやりと働く。兵士でも戦士でもない自分に向けて、お前は誰だ、とベルトルトは指をつきつける。つきつけた指の先には何もない。ベルトルトはアニに触れたまま、自嘲するように唇を歪めた。
(2013/09/29)