端的ロマンチスト
 寝室の本棚はベルトルトのものらしいが下から二段目はアニのテリトリーだという。  クリスタはベッドの脇に屈み込んでじっと本棚を観察していた。どんな本が並んでいるのかとささやかな好奇心から始まり、覚えのある作家を見つけて勝手に親近感を抱き、気になっていた作品を見かけて別の好奇心が沸いて、その矢先に唯一カバーのかかった本を件の棚に見つけて処理の難しい好奇心に着地してしまった。  触れていいものか、とクリスタは思案する。どことなくよそよそしい一冊である。他の本とは異なる事情で棚に鎮座しているかのような。クリスタはしばらく考えてから、これって、結局我慢できずにアニに聞いた。アニはこちらを一瞥しただけで別段顔色を変えることもない。 「ああ、読みたきゃ読んでいいよ。貸せないけど」  言いづらそうという様子ではなかった。貸せない、という事情もきっぱりしている。  クリスタは少し黙したのちに、大丈夫、と話題を取りやめた。読むの遅いし、とベッドに上がる。 「それよりごめんね、急に押し掛けて。おまけに泊めてもらうなんて」 「いいよ別に。私もひとりだと余計なこと考えそうだったし」  アニはどこから調達してきたのか枕を抱えてベッドに上がってきて、こっち使いな、ともとからベッドにあった枕をクリスタに寄越した。おそらく調達してきた枕はベルトルトのものであろう。ベルトルトはどうやって寝るのだろう、とクリスタは神妙になる。 「……あの、私がアニと寝ちゃったら、ベルトルト、寝る場所なくなっちゃったりとか、その、いいの?」 「平気、ていうかあいついつも向こうで寝てるから。大体あんたを向こうで雑魚寝なんてさせたらユミルになんて言われるか」  うるさそう、とアニが肩を竦めた。クリスタは頬を緩ませる。彼女の優しさは不器用だけれどわかりやすくてどこか落ち着く。  アニの優しさはユミルのそれと少し似ていた。ユミルのほうが若干面倒な類いではあるが、二人のそれは相手に気遣わせまいとする優しさで、それが相手に見切られやすいというところまで似ている。優しいと指摘すればそんなのじゃないと突っ返される不器用なやさしさ。そんな柄ではないと他人にも自分にも言い聞かせるようなやさしさ。  そういう優しさの扱い方は慣れていた。クリスタはアニの言葉に甘えて枕を引き寄せる。  猫は放っておいていいと半端なところで不精を起こすアニに笑って、ついでに、ごく自然なついでを心掛けて先の地雷を蒸し返す。ベルトルトが出て行ってからの彼女の様子がずっと気になっていたのだ。 「ねえ、アニ、さっきの……余計なこと考えちゃうっていうの、アルミンのこと?」 「ああ……、いや、どっちかっていうとベルトルトかな」 「ベルトルト?」 「そう。たぶん、腹立って蹴っ飛ばしたくなってたと思う」  物騒な流れになってきたがクリスタには心当たりがあった。ベルトルトが部屋を出ていく前、彼の一言を聞いて、一瞬だけアニの表情が強張ったのだ。  あの時は正直自分のことに手一杯で、彼の言葉について深く考える余裕なんてなかった。言葉と、それからアニの反応と。思えばたしかに引っ掛かる言葉ではある。 「……ベルトルト、ユミルの気持ちがわかるって」 「うん」  アニは口元を歪める。あいつ、とむりやり感情を押し殺すような言い方だった。 「あいつ、たぶん、まだ私に引け目みたいなのがあるんだと思う」 「引け目? ベルトルトが?」 「そう。ほんとくだらない」 「どうして」  アニはふつりと黙り込んだ。事情を話すことを渋っている様子ではない。おそらく、話し方を考えている。事情よりも感情が込み入っているのだ。クリスタは黙って彼女の言葉を待つ。 「……アルミンと付き合って、別れて」 「うん」 「別れた頃の私って、たしかに相当へこんでたし、そこに付けこんだとか、たぶんそういうやつ。で勝手に引きずってんの。ばかばかしい」  最後は吐き捨てるように聞こえた。どうにか引っ張りだした感情をわざとぐしゃぐしゃに丸めて捨てるような。少し、彼女自身に当て付けるような言い方でもある。  クリスタはじっとアニを見つめた。彼女の静かな瞳に翳がちらついている。寂寥の色だ。 「——あいつの気持ちにつけこんだのは私のほう」 「アニ……」 「私こそ引け目感じるべきなのに」  ベルトルトの記録的な片想いについてはクリスタの耳にも届いている。ベルトルトにとって、アニとの間にあるのはその記録的な片思いを描く片道の矢印だけなのだろう。  けれどアニは違うらしかった。アニはもうひとつの矢印を持っている。彼女にとってのそれは、自身に向けられたそれとベルトルトに向かうそれのふたつだ。けれどその矢印はひとつにまとまることはなくて、つまり、すれ違っている。  そうして実際、すれ違っているのは矢印ではなく彼女たちの感情だ。  だからアニは寂しがっている。 「……アニは、ベルトルトのこと、すき?」  伝えることが下手なアニと隠すことが下手なベルトルトだ。お互いに不器用なところは似ている。 「……そうだね。すごく」  苦しいくらい、とアニが無理にわらった。彼女がこんなふうに、こんな顔で感情を告げることを、おそらくベルトルトは知らないのだろう。クリスタは同情してしまう。  そっか、とクリスタは彼女の頭を撫でた。つられてまた涙腺が緩んでしまった。 「じゃあ、アニ、わたしと一緒だ」  息が詰まりそうだ。言葉が詰まりそう。感情はこんなにも強いのにどうして無力なのだろう。  好きで好きでたまらないのに、その相手が好きをわかってくれない。信じてくれない。ユミルもベルトルトも、何もわかっていない。 「さびしいね」  口にしたらその感情が本物になってしまった。  そうだね、と目元を和らげたアニが、クリスタの眦を拭ってくれた。 ***  ユミルとクリスタの生活空間はベルトルトたちのそれよりもずっと広々している。一人暮らしの部屋に住人だけを追加したベルトルトの部屋に対して、最初から二人で生活することを前提としていた彼女らの部屋はきちんと二人分の部屋もある。何より小綺麗だ。  何しにきたんだよ、と凄まれながらも麦茶を出されたところでスマートフォンが鳴った。画面をタップしてみるとアニからで、あ、クリスタ泊まるって、とよくわからない切り出しになってしまった。 「なんだ、結局あんたらのとこが引き取ってくれたのか」 「まあ。紆余曲折はあったらしいけど」 「ふうん? で? 家に天使みたいなの二人だけで置いてきて? アンタは何しにきたわけ?」 「あ、猫もいるよ」 「そうじゃねえよ」  ベルトルトは遠慮なく麦茶に口をつける。想像通りではあるがユミルはいつも以上に刺々しい。 「ゴッホっていうんだけどね、その猫」 「ネーミングセンス」 「いろいろあったんだよ。で、その子、いつもふてぶてしいくせにそういうのに妙に敏感というか優しくてさ。クリスタのことも心配してたよ」  ユミルがふつりと黙り込んだ。こういうところはわかりやすい。彼女は何か言いづらそうにして、結局何も言わずに目を逸らして、ふうん、とだけ言った。 「……で?」 「とりあえずは落ち着いたみたい。ユミルが意地になってクリスタの話も聞かないようじゃ引き取り甲斐もないし、ちょっと偵察というか、様子見に」 「ずいぶんだな、ベルトルさんよ」  ユミルはわざとらしく両手を広げる。聞き慣れた皮肉が今日ばかりはどこか空しい。  ベルトルトは苦笑しながら、それに、と白状した。 「ちょっと、ユミルに同調したというか」 「同調? 同情じゃなくて?」  言い直してからユミルは自分でああという顔をした。得心顔から、続いて呆れたような顔をして、彼女のほうが同情するように息を吐く。 「あんた、まだ引きずってんのか」  アルミンのこと。  ユミルは率直である。  ベルトルトは何も言わずに、ただ曖昧なかたちで笑った。 「……君たちはさ、もったいないよ。最初からお互いが好きで、そのすきの感情に引け目なんてないだろ。傷つく必要も傷つける必要もないのに、傷つけて」 「……説教かよ、それ」 「まさか。僕の願望というか、うーん、羨望? とにかく、上手くいくんだから上手くやればいいじゃないって、そういう」  ふうん、とユミルは目を伏せた。  日頃から他人の扱いをぞんざいに見せる彼女は、その実、思慮深くてやさしい。思慮深さが皮肉に、優しさが厳しさに見えるだけで、今だってベルトルトの言葉を無下にはしない。  どこぞの不器用な同居人に通ずるものがある。ベルトルトは曖昧な笑みからいよいよ破顔した。 「……しかし、なんだその、自分らは上手くいかないみたいな言い方」 「あ、別にそういうつもりじゃ。仲良いよ。順調」 「そりゃご馳走さま」  ユミルはふらりとキッチンのほうへ踵を返してしまう。 「そういやあんた、来月アルミンが帰ってくるって聞いたか?」 「え? 本当? でもたしか留学って来年までじゃ」 「一時帰国っつーの? 一週間こっちにいてそのあとまたロンドンだと。なんか嵐の予感するけどな、私は」 「嵐って」  そう言われてしまうと穏やかでないベルトルトである。  ユミルがカウンター越しに意地悪げな笑みを寄越した。 「アニちゃん迎えにきたとかだったりして」  笑えない。  ベルトルトは神妙に考え込む。そもそもアルミンとアニは嫌い合って別れたわけではない。すきという感情があって、その感情を扱いかねたアニと、そんなアニを見かねたアルミンが、名残惜しくも別れたという体だ。アルミンはたぶんまだアニが好きだ。そして、もしかすると、おそらく、アニのほうも。 「……もし本当にそうだったら、僕、とめていいのかな」 「…………あんたさあ」  ユミルが、はあと盛大に溜息をついた。カウンターに崩れ落ちてこぼした、だめだこいつ、というごく小さな呟きも、残念ながらベルトルトの耳に届いている。 「それじゃ私とやってること変わんねえじゃん。説教しにきたかと思えば、説得力ねえっつーか、何しにきたんだよ本当……」 「え、いや、だから」 「しょうがねえな、飲むぞ」  付き合え、と横暴な流れになってしまった。  ベルトルトは慌てる。別に飲めないわけではないがそういう問題ではない。状況とシチュエーションが非常によろしくない。やましい気などこれっぽちもないが、このままほだされたらさすがにアニに蹴飛ばされる。  しかしユミルはベルトルトの事情などそっちのけである。すでに冷蔵庫から手始めの缶ビールを引っ張り出していた。 「ちょっと、駄目だって、僕ふたりが寝付かないうちに帰らなきゃ」 「いいじゃねーか、猫いんだろ。バッハだっけ?」 「ゴッホだよゴッホ。じゃなくて、起こしちゃ可哀想でしょ」 「朝帰りでいーだろ」 「アニに怒られるから!」  ベルトルトは必死だった。怒られる理由に自分への嫉妬とか、彼女としてのやきもちとか、そういうものがあるならまだ乗ってもいい。愛されている実感がベルトルトだってほしい。けれどこの場合のアニの怒りは、クリスタに悪いとか思わないの何なの、という冷ややかなほうである。ベルトルトが反省するだけのほうだ。  とにかく帰るよ、と腰を上げかけたとき、目の前に缶ビールが突き出された。  ユミルを見る。彼女はすでにビールに口をつけながら、どこかすがるような目をしている。 「……付き合えよ」  ベルトルトは嘆息した。  そんな目をするくらいなら始めからクリスタを引き留めていればよかったのに。 「……一本だけね」  結局ほだされて缶を受け取った。  家でアニとクリスタが早めに就寝していることを祈りながら、自分とよく似た可哀想な性分の彼女のためにプルタブを引く。 ***  酒は好きだが強くはない。そのあたりの自覚と配慮はきちんとある。  だから一応、揺り起こされた時も比較的すぐに脳が覚醒したし、見当識もまともに機能していた。ここがどこで、どうして飲んでいたか、誰と飲んでいたかくらいの記憶も早々に回収できた。突っ伏していたテーブルにはビールの空き缶と申し訳程度のつまみがちらかっている。  問題は、ベルトルトがいつの間に消えて、ユミルを揺り起こしたのがクリスタだという事実である。 「……夢か?」 「もう、また変な飲み方して! 酔いきる前に寝ちゃうんだからそれやめなよ!」  ユミルはむくりとテーブルから身を起こす。  夢か、と往生際悪くクリスタをぼんやり眺める。彼女は尚も、そもそもそんなに酔いたくなるくらいなら云々と説教を垂れている。目元が赤い。泣いて出ていったことも夢ではないし、今現在クリスタが目の前にいることも夢ではない。 「ユミル! 聞いてるの!」  叱られた。おかあさんかお前、という言葉のかわりに、ユミルはばつの悪い形で口を開く。 「……お前、ベルトルトんとこ泊まるんじゃなかったのかよ」 「ベルトルトが連絡してくれたの。ユミルが可哀想な酔い方してるって。ほっとけないから来てあげてって。わざわざアニが送ってくれたんだよ」  それはもちろんこんな時間にクリスタを一人で出歩かせるわけにはいかないだろう。おそらくベルトルトを引き取りにくる目的もあっただろうが、アニならボディガードとして言うことはない。というか今は何時だ。 「ほんとにもう、こういうの、アニに悪いんだからね! 二人に下心なんてないのわかってるけど、そういう問題じゃないんだから」  ユミルはテーブルに頬杖をつきながらクリスタの説教を甘受する。息巻く彼女は昨日までとなんら変わりない。泣いてこの家を出ていくまでの彼女と、まったく変わりない。  彼女の肩越しに時計を見ると一時を過ぎていた。どうりで眠たいはずだ。 「それに」  語気が強まる。ちらりと視線を向けると、クリスタはいつもと変わらぬまっすぐな眼差しをユミルに向けていた。 「それに、わたしにも悪いよ」 「ああ……」 「ベルトルトと二人きりで飲むなんて、わたしにも悪いんだから」  ユミルは緩慢な動作で頬杖をやめた。  何度も言うがクリスタは泣いて出ていった。ユミルに傷つけられて、泣いて、ユミルから離れていった。  彼女の瞳は今も傷ついた色をしている。  けれどどういうわけか強かな芯をなくさず美しい。 「……ねえ、ユミル、私の幸せを思ってくれるなら私の気持ちを思ってよ。私の幸せをわかった振りなんてしてないで、私の気持ちをわかって」 「クリスタ」 「わたしは、だって、ユミルの気持ちがわかるよ。私を傷付けて、そのことに傷付いて、酔っ払いたくて、酔えなくて、後悔して」  クリスタは目を細める。そういうの、とユミルをなじるように続ける。 「そういうの、わかる? わたしと一緒にいたいって思ってる」 「……」 「わたしだってユミルといたいの」  一緒にいたい。  クリスタの声が切実な色を乗せてその願いを繰り返す。ろくでもない心臓がぎゅうと締め付けられるようだった。  彼女の、強いふりをしていた目元が、もうすでに、危うい。 「わかってよ、ユミル……」  ついにこぼれた涙をぬぐって、ユミルはそのままクリスタを抱き寄せた。細い肩が震える。躊躇を見せた両手はそれでもユミルに縋りついて、小さい手のひらなりに力いっぱいユミルを繋ぎ止める。 「——わ、るかったよ」  声を殺して泣きじゃくるクリスタを抱き締める。まだ消えぬ躊躇の分、力いっぱいにとはいかなかったが、できうる限りその腕と言葉に力を込める。せめて彼女の小さな手のひらに応えられるように。  息の詰まる思いがした。こんな泣き方は見たことがない。こんな泣かせ方は初めてした。  ——こんなふうに傷付けるなんて。 「悪かった、クリスタ」  シャツが温かく濡れていく。ユミルは黙って華奢な背中を掻き抱く。  言葉を探したが見つからなくて、結局、諦めた。甘い言葉も真面目な言葉も、冗談も皮肉も何も出てこない。言葉なんて本当に役立たずだ。  感情のやり場が見つからなくてせめて互いの身を寄せ合う。わだかまりも不安も、すべて押し潰せてしまえたらいいのに、とその距離がもどかしかった。 ***  車も人通りも少ない深夜の住宅街を並んで歩く。少し車道にはみ出しながら歩いたりして、なんとなく沈黙が心地よくてお互い黙ったままだ。黙ったままだらだらと家を目指す。静かで、時おり通り抜ける風は夜の匂いがした。  酒が入っているわりにベルトルトの足取りはしっかりしている。酒は飲んだが回ってはいないらしい。ユミルを相手にしたわりにはずいぶん中途半端な酔い方である。  だけど少しわかる気もした。  アニだって今飲んだところで、きっと上手いことアルコールは回ってくれない。  アニは気まぐれに手を伸ばした。彼の無駄に長い指、薬指と小指をまとめて鷲掴む。ベルトルトが驚いたように見下ろしてきたが、アニは素知らぬ顔でやり過ごした。  こちらの反応から何を汲んだのかは知りようもない。ベルトルトは何も言わぬまま、指を絡め取るように繋ぎ直した。  沈黙が心地いいのは本当だ。  沈黙のほうが気が楽だという本音もあった。  クリスタを拾ってから返却するまでざっと五時間程度である。なんだか一日まるごと使った気がした。  感情にあてられすぎて正直胸焼けしている。  クリスタのユミルへの感情と、ユミルのクリスタへの感情と、人の気も知らぬライナーと、アルミンが帰ってくることと、 それに動揺した自分と、ベルトルトの思いとベルトルトへの思いと。  数時間前、泣きそうになりながら胸中で毒づいた言葉を、今はやけに凪いだ心で繰り返す。この男はきっと何もわかっていない。  握る手に力をこめる。  ベルトルトは握り返してくれた。  一駅分の距離を三十分かけて歩き、帰宅する頃には二時に近かった。ゴッホは勝手に寝ているだろうな、と留守番のトラ猫に思いを馳せる。  鍵を開けるときに手が離れた。  ベルトルトがドアを引き、そのままの体勢でアニを待っている。アニは遠慮なく先に玄関に上がった。  ただいま、とつい習慣で口からこぼれ落ちる。  おかえり、と後ろからベルトルトが笑った。  そのとき、アニは、無性に泣きたくなった。  せり上がってくる感情が多すぎてわからない。  笑い返せばいいのか、苛立てばいいのか、大事に思えばいいのか、もとより感情の処理の苦手なアニには手に余る。途方に暮れて、行き着いた感情が、泣きたい、だった。  帰る場所が変わって、この場所に安心するようになったのはいつからだろう。  狭い玄関、後ろ手に鍵を閉めたベルトルトに、アニは伸び上がってキスをした。  ベルトルトは驚いた顔をしている。けれど表情よりはいくらか冷静のようで、いつもと同じように優しく肩に手を添えてくれた。 「……アニ?」  キスを名残惜しむ距離で、ベルトルトの瞳がアニの瞳を探る。 「どうしたの、めずらしい」 「……べつに」 「もしかして、クリスタたち見て不安になっちゃった?」  ベルトルトがやわらかい声で問うてくる。ああなるほど、とアニは深い瞳を見上げながら納得した。この感情は不安という名前が正しい。  アニは今いちどキスをせがんだ。だとすればこの感情はどう始末すればいいのだろう、と彼のくちびるに答えを求める。  ベルトルトが首を傾けて舌を潜り込ませてきた。熱い舌に応じながらベルトルトの首にすがりつく。こもった声と濡れた音が深夜の玄関に味気なく響く。彼の腕はいつの間にかアニの腰を支えていた。 「……まだ不安?」  答える間ももったいなくて、もっとと熱を求めようとしたら体が浮いた。ベルトルトに抱き上げられ、つま先にぶら下がった靴を落としながら、アニは熱い首筋に頭を埋める。  ベルトルトは部屋の電気もつけずに寝室に向かい、アニをベッドに下ろすとゆったり覆い被さってきた。間近に見える彼の瞳が柔らかい。こういう時はいつもそうだ、アニを甘やかすときの眼差し。 「……あんた、明日、バイトは」 「あるけど、アニが甘えてくるなんて雪降りそうだよね」 「電車止まってバイト休み」 「いいね」  ベルトルトの指が優しく前髪を払う。そのまま頬を包むように撫でて、親指がアニの唇をやわくなぞった。くすぐったい。 「あとちょっと歯止めきかないかも」 「……あ、そ」  手を求めるとベルトルトが指を絡めてくれた。やさしくシーツに縫いつけられて、熱の上がったキスが降ってくる。  わだかまりも不安も、ベルトルトがこうして食べてくれることを知っていた。胸の内のだれかが卑怯だと糾弾してくる前に、アニはすべて閉め出すように目を閉じた。

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