やさしい歌をきみに
頭がいたい。身体中がだるい。喉のあたりがぎゅうと苦しくて息があつい。意識が頭より少し上のところをふわふわ彷徨っている感じがして、そうだ風邪をひいたんだ、とアニはうつらうつら目を覚ましては微睡んだ。
アニは夢をみた。暗い場所。冷たい感触。耳を澄ましても何も聞こえない。目を閉じているから何もわからない。明るい場所も、ぬくもりも、望むでもなくすでに諦めていて、アニはただ独り閉じこもっていた。
瞼を持ち上げると夢ごと覚めていて、アニは、見慣れた天井とタオルケットの感触にひどく安堵した。
さびしい夢だった、と相変わらずふわふわした頭で思い返す。夢と呼ぶには何か足りぬ、感触だけの夢だった。何もないという感触の夢。さみしかったな、とアニはぼんやり心細い。
「……ん? 起きたのか? アニ?」
ライナーの声が聞こえる。いつもより少し優しい声だ。彼が顔を覗き込み、気分はどうだ、と優しい瞳で問う。でかい手が額に触れてアニはうっかり泣きそうになった。気分なんて最悪だ。
「なんだ、どうした? 怖い夢でもみたか?」
風邪ひいた時って変な夢見るもんなあ、と呑気な声でアニをあやす。ライナーの手がぐしゃぐしゃと髪を撫でて、アニは口を引き結んでそっぽを向いた。
「――べつに」
「そうか? まあ話したくないならいいけどな。何か食えそうか? ベルトルトの作ったお粥があるぞ」
アニはいらないと拒んで目を閉じる。でかい手の感触がわかりやすいほどに安堵をもたらした。夢の感傷が優しく霧散していく。さみしいと素直に言えたらよかったのに、とアニはそんな自分がさみしい。手を伸ばせばこのでかい図体の保護者気取りはきっと抱き締めてくれるのに。
不意にライナーの手の感触が消えた。ぱっと目を開くと当然のようにライナーはまだいて、なんだよと言って笑う。
「ちゃんといるだろ。大丈夫だって」
あやすように頭を叩くてのひらに促され、アニはようやく体の力を抜いた。どろどろとした気だるさが思い出したかのように纏り付く。また夢を見ても、またさみしくなっても、ライナーがいてくれるらしいので大丈夫だろう、とアニは眠りについた。
***
次に目を覚ますとライナーではなくベルトルトがいた。文庫本を片手にしたベルトルトをアニはぼんやり見上げる。起きたの、と彼はもう一方の保護者とまったく同じことを訊いてきた。
「ライナーは買い物行ってるよ。押しつけちゃった」
ベルトルトが悪びれずに笑う。思考が朦朧としていることもあって何と返したものかよくわからない。かろうじて、過保護だ、と胸中で毒づいた。
「つらくない? 大丈夫?」
「…………ももかん…………」
「あ、うん、頼んでおいたよ、桃缶」
ライナーのそれよりも少し柔らかい手が、けれどライナーと同じ手つきでアニの髪を撫でる。ライナーばっかりアニの傍離れないから、とベルトルトは買い物を押し付けた弁解を始めた。僕だってアニの傍にいてあげたいのに、と勝手なことをのたまう。
「ひとりで平気なのにって顔してる」
「……」
ほつれた髪をベルトルトが優しく解していく。言い当てられたアニはふいと目線を下げた。
「ねえ、アニ、シンギング・ドッグって知ってる?」
そしてベルトルトは突然、けれど突然さのまったくない声で現実味のない話を始める。
こういう時のベルトルトの口調は、すこし、アルミンに似ている。脈絡があるようなないような、不思議なタイミングで不思議な話を始めて、知らず耳を傾けてしまうような、押しつけがましさのない声だ。真剣に聞かなくていいと知っているから、アニはぼんやりとしたまま首を振った。
「すっごく古い種類の犬でね。人の手から離れて、山のずっと奥、その犬たちはひっそり生きてきたんだ」
目を伏せる。ベルトルトの声が気持ちいい。思い出したかのように髪を梳く指先にほっとする。アニの脳裏に山を駆ける犬の姿が浮かんだ。
「山奥でさ、お互いの居場所を確認するために、彼らは歌うんだって。誰かを呼ぶとき、誰かに呼びかけるとき、自分がここにいるって伝えるとき、遠吠えが重なって、不思議な和音を生む」
「遠吠え」
「そう。その遠吠えってちょっとさびしそうなんだよ。さびしそうな声で仲間に呼びかける。群れとして生きてくためだけじゃなくて、深い山の中でさ、さびしくて誰かを呼んでるのかもね」
広い山のなか、アニの想像する犬は一頭きりだった。たしかにこれは、さびしいだろうな、とアニは同情する。さびしいだろうに、その犬は遠く吠えることもせず、ただじっとこちらを見つめている。ああ、なんだかまるで自分のようだ。
「犬だって寂しいんだから一人は寂しいよ。ライナーはアニが寂しがりなこと知ってるからさ」
「……ベルトルト」
「うん?」
わたしもずっとさびしかった、アニはうつらうつら言葉にした。ずっとっていつだろう。アニの明瞭としない頭にはかつてのさびしい感触しかない。夢に見たものとは少し違う、けれど彼らと会うまで、アニは確かにさびしかったのだ。
「……僕もね、寂しかったよ。ライナーとアニと会えるまで、寂しかったなあ」
独り言のように呟く声はどこか苦笑じみていた。そうだろうな、とアニは思う。さびしくて吠えていたとしたらきっとベルトルトだろう。山だろうが何だろうが、その声に気付けるのはライナーで、吠えてもいないのにアニの声に気付けるのは、ライナーとベルトルトだけだ。
柄にもなく感傷に浸っていたら階下でドアの開け閉てと申し訳程度のただいまが聞こえた。ライナー帰ってきた、とベルトルトが笑う。
やかましい足音とビニールの音が近付いてきて、やがて無遠慮にドアを開けたライナーが顔を覗かせた。
「アニ、起きてるか? 桃缶――」
「うるさいよライナー、自業自得とはいえアニ病人なんだからね」
「そうだぞアニ、風邪治ったら説教だからな」
「いや僕ライナーに注意してるんだけど」
ああもううるさい、とアニは顔をしかめる。先までの感傷も綺麗に吹っ飛んでしまった。そもそもクーラーをガンガンにかけたリビングで寝こけていたのはこの二人も同じなのに、どうして自分だけが風邪をひいているのだ。不公平だ。
おい桃缶はとしつこいライナーに、今はいらないと突っ返してタオルケットに潜り込む。ライナーの説得力のなさそうな説教が待ち構えていることと、乙女の部屋に勝手に入り浸る無神経な男どもへの説教を胸に決めたこと、目を覚ましたあとの予定が馬鹿馬鹿しいほど普遍的で、さみしい犬の夢もどうやら見ないで済むようだった。
犬の話はすいか(ドラマ)の受け売り。このシリーズが転生系なのかなんなのか、記憶があるのかないのか、そのほどはわたしにもわからない。