スロウステップ
 ただいま、と欠伸を含んだせいでずいぶん腑抜けた帰宅となった。夜勤上がりのぼやぼやした頭で玄関に上がるとアニとぶつかって、ベルトルトはよろめいたアニの腕を慌てて掴む。 「うわ、ごめんアニ、おはよう」 「おはよう。おかえり」  二つの挨拶が入り混じった奇妙な会話をしながら、狭い玄関、ベルトルトはスニーカーを脱ぎ、アニはパンプスを履く。 「出勤早くない? ゆうべだって遅かったのに」 「今月忙しいの。今日もたぶん残業」 「ふうん……」 「あんたもバイト入れすぎて単位落とさないようにね。それじゃ」 「あ、いってらっしゃい」  ゆっくり顔を見る暇もなかった。けれど彼女の目元に疲れが滲んでいたことくらいはわかる。  無理しないでね、という言葉が社会人にとって無力なことくらいは承知しているが、それにしたって何か労ってやれたらよかった、とベルトルトは欠伸をしながら部屋に上がった。 ***  というやりとりも、思えば一日前で、今日に至っては顔すら合わせていない。  ベルトルトは暗闇の中で思いを馳せる。最近はずっとそんな感じだ。全然ゆっくり顔を見れていないし、他愛ない会話すらまともに交わせていない。  別段珍しいことではない。社会人と学生なのだから生活リズムが噛み合わなくても仕方ない、とは、思う。  カチ、カチ、と意識の外側で秒針がぼんやり進む。  規則正しいその音が、ぎりぎりのところでベルトルトの睡眠を妨げていた。  日付はそろそろ跨ぐ頃だ。アニはまだ帰ってこない。遅くなるという連絡がきたから、おそらくは終電だ。アニがいないのでベルトルトは居間で眠るほかなく、布団を敷くのは面倒なので枕と毛布だけで直接カーペットに横になっている。縦長の図体ではソファは逆に窮屈で、おかげで最近腰が痛い。  ベルトルトが最近バイトに出ずっぱりなのは、金銭的な理由がどうこうではなく、単に人手が足りないだけだ。学校も毎日あるわけではないので致命的な寝不足ということはない。それでも人並みに疲れは出るわけで、重だるい眠気の中、金曜の夜くらい顔が見たかったな、と往生際悪く考える。明日は朝からバイトだし、何より気をつかわせたくないので待つことは諦めた。  寝返りをうつ。  土日休みのアニは明日は休みだ。つまり、バイト明けの夕方頃には顔が見られる。思いきり甘やかそうと心に決める。というより、自分を励ます。いい加減寝ないと明日のバイトがつらい。  ベルトルトは未練たっぷりに睡魔に身を委ねる。 ***  ゆらゆら浮上した意識が捉えたのはドライヤーの音だった。  やけにくぐもって聞こえるのは、普段開けっぱなしにしてある、洗面所やキッチンと居間を隔てる引き戸が閉められているせいだろう。ああ、アニ、かえってきたんだ、とベルトルトは半分寝た頭で考える。  ふつりとドライヤーの音が止んだ。コードを巻く音、物音、足音、ぱちんと電気のスイッチを切る音。  やがて、引き戸の滑る、かすかな音が聞こえた。  ふー、とながい溜め息が部屋に滲む。疲労の見えるそれだった。控えめな足音がゆったりとこちらに近付き、ふわりと、自分より甘やかな石鹸の香りがただよう。  頭のすぐちかくにアニが膝をついた。  おそるおそる、慎重な手つきでベルトルトの頭に触れる。なにかよくわからないが、ああ、疲れてるんだな、とベルトルトはぼんやりと察した。  アニの手がくしゃりとベルトルトの髪を撫でる。  なんだか無性にやるせなくなり、ベルトルトは身じろぎながら、瞼の開ききらぬ顔でアニを見上げた。 「……おかえり、アニ」  アニの手がぴくりと強張る。  まどろみのふちにいる声はずいぶんふやけていて、部屋の静寂がかろうじて輪郭をつくってくれていた。 「……ただいま。ごめん、起こすつもりは」 「大丈夫、まだ半分くらい、寝てる」  なにそれ、とアニが少しわらう気配がした。ベルトルトはつられて目をほそめながら、ゆるんでいく感情をじっくり噛み締める。一人寝のおかげで凝り固まった腰と背中と、ついでに心もほぐれて、じんわりと体温がともる感覚がした。  なんだかすごく久しぶりな感情だ。  ベルトルトは息をつくように笑って、かけていた毛布をゆるく持ち上げた。 「おいで」  いっしょに寝よう。  アニは少し黙したのち、何も言わずに毛布のなかに潜りこんできた。もぞもぞと落ち着く体勢を探すアニを、探しきる前に腕を回して引き寄せる。 「あした……」 「ん?」 「あした、僕、バイトだけど」 「……うん」 「かえってきたら、あまえさせてね」 「ん……」  アニが額を肩口に押し付けてうなずいた。さらさらとした髪の感触と、彼女の息遣いがくすぐったい。ベルトルトは小さな頭に頬を寄せる。 「おやすみ、アニ」  とん、とん、と背中を優しく叩いて、けれどやはり眠くて、三回目で力尽きた。何よりすでに必要もなくなっていた。  穏やかな寝息が首元に触れる。  彼女の吐息がふしぎな安堵をもたらして、とろりとした睡魔が瞼に伸し掛かる。彼女の呼吸に合わせるように、ベルトルトの意識もゆるやかに沈んでいった。

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