洗顔フォームで歯を磨く
ちょうど皿を洗い始めたところで洗面所のほうから盛大な衝突音が響いた。衝突音というか、具体的に言うならライナーがアニに盛大にひっくり返された音だ。
朝から騒々しい。様子を見に行こうかと手を拭いていると、その必要もなくうるさい足音がキッチンに飛び込んできた。
「待てアニ! 悪気はないんだ! 本当だ!」
アニがずかずかとベルトルトの前に歩み出る。その後ろからライナーが出現する。アニのものすごく剣呑な目付きと、ライナーの追いすがる様子からして十中八九ライナーが悪い。ベルトルトは辟易した。
「どうしたの?」
「ライナーが」
とばっちりでベルトルトまで睨み上げられる形勢だ。アニの指はびしりとライナーを差していて、なんというか、おにいちゃんがゲーム返してくれない、みたいな台詞が出てきても違和感はない。
「何? またアニの寝癖直し使ったとか? あれほんといい感じに女の子の香りするんだから勘弁してよね」
「いや俺もまさかあそこまでいい感じに漂うとは……違う、あれはもう二度とやらんと誓っただろ」
「ライナーの二度とはあてにならないってこの前ベルトルトも言ってた」
「お前ゴリラと腰巾着のどっち信じるんだよ」
「ゴリラと人間なら人間信じるよね」
うん、とベルトルトは生返事をする。何の話だろうという素朴な疑問を頭の隅に寄せて、ベルトルトは慎重に話題を引き戻した。
「アニもさ、とりあえずでひっくり返すのよくないと思うんだ。ライナーだって一応人間だよ。事情とかあるんだよ」
いさめたつもりがライナーにオイと突っ込まれた。アニはともかくこちらはゴリラなんて一言もいっていない。ベルトルトとしては今日の朝も何事もなく平和に家を出られればそれでよかった。
「理不尽ならちゃんと謝らなきゃダメだ」
「だよな」
「ライナーが私の歯ブラシ使って歯磨いてた」
「ライナー、ちょっとそこに正座して」
許せる現実とそうでない現実がある。
キッキンの床を指差すとライナーはいやだから俺はと弁明を始めた。埒が明かないので、というより尚も怖い眼光がベルトルトを射抜いており、いいから、とライナーを座らせる。
アニはふいと脇を抜けて朝食の用意を始めた。
「あのね、 ライナー。いくらアニが幼馴染みだって、いくら六歳まで一緒にお風呂入ってた仲だからって、こういうのはちゃんと気をつけてあげなきゃ」
「オイ、俺とは五歳までしか一緒に入ってくれなかったぞ」
「しってる。わかりやすいステータスだ」
「くっそ……」
「ねえアンタら真面目に説教する気あんの」
ジジジ、とトースターがパンを焼くべく唸っている。アニはその横でコーヒーをいれていた。マグはひとつ、非常にわかりやすい。
「……なんというか、まあ、きみの豪胆さはいいところだよ。よく知ってる。だけど長所っていうのは表裏一体で短所にもなるわけで」
「就活アドバイザーか」
「六点」
「辛っ」
ヒヤリと物理的でない何かが眉間のあたりを突き抜けた。突っ込みの採点ですらアニににらまれる。ままならないなあ、とベルトルトは別方向からの説教を模索した。
気を取り直してライナーを見下ろす。
「ライナー、きみはクリスタの歯ブラシをくわえるか?」
「——アニ、残念だが人選ミスだ」
「気付いてた」
アニは興味などなさそうに冷蔵庫からバターを取り出している。その評価についていえばベルトルトも大いに賛成で、できればこういう役は避けて通りたい。ライナーもアニも朝くらいはおとなしくしてほしい。
「だいたいそんなのくわえたいに決まってるじゃん。愚問だよ、ベルトルト」
「そうかあ」
「俺そんなに落ちぶれたふうに見えるか」
「これから私の下着ライナーのと一緒に洗濯しないでね」
「……!!」
「うわ」
ライナーが絶句している。ちょうどそのタイミングで、チン、とトースターが間抜けな音を鳴らした。
アニが皿を片手にトースターを開ける。フリーズするライナーと、あーあと同情するベルトルトをよそに、彼女は悠々とバターを塗っていた。
「二次反抗期きたかな」
「お、遅くねえか……いや一次なんてあったのか?」
「高校入りたての頃かな。同じこと言ってたよ」
「まじか」
しにたい、とライナーが撃沈した。わからなくもない。おまけに本当はこっそり分けて洗濯していましたなんて、さすがに床にメリ込みそうなので黙っておいた。
「アニ、説教こんなものでいい?」
「逆に聞きたいんだけどどのあたりが説教だったわけ?」
「ここまで落としておけば二度とやらないんじゃないかなって」
「あんたが一番エグイよ。ねえ、予備の歯ブラシってあったっけ」
「洗面所の引き出しにあった気がする。左のほう」
「あとで探してみる」
なかったら洗顔で歯みがく、と無感動に告げてアニはダイニングに移動する。床と仲良くしているライナーを華麗に通りすぎ、ひとりダイニングテーブルについて朝食をとり始めた。
ベルトルトも日常的な朝の光景に戻ることにした。コックを捻って皿洗いを再開する。
「あ、私今日帰ってこないから」
「え? 何かあるの? 飲み?」
「アルミンとこ泊まる」
え、とベルトルトがリアクションを取るより先にライナーが屍から復活した。がばりと立ち上がるや否や、カウンターから乗り出す勢いでダイニング側に迫る。
「おい!! いくら歯ブラシがアレだからって出てくことねえだろ!!」
「は? 違うし」
「おとうさんは許しません!!」
「ウザイ」
ベルトルトは極力無心で皿を洗う。朝からライナーのこのテンションは若干つらい。
「おとーさんにつべこべ言われる筋合いはないね」
「あるっつーの。階段のぼるつもりなんだろ」
「ブッ飛ばすよ」
アニがライナーに凄みをきかせながらトーストをかじっている。というかライナーは家を出る支度はしなくていいのだろうか、とベルトルトは案じる。たしかアニと一緒で一限だったはずだ。
「ライナー、朝ごはんはいいの?」
「ああ、いや、なんかもう胸焼けしてる」
「朝から大変だね」
いちいち感情移入していたらそれこそ胸焼けしそうで、ベルトルトは適当に他人事にしておいた。心得ているライナーはベルトルトのスルーをスルーする形で会話を終了させる。
「アニ、アルミンによろしくね」
「うん」
「俺はまだ認めてねえぞ」
「うるさいバカ」
「くれぐれも避妊はするようにって」
「ごちそうさま」
アニは感情のない声で言って立ち上がった。
「とにかく伝えたからね。この間みたいな騒ぎは御免だよ」
「いや、あれ、アニが悪かったよね」
「おい、バカとはなんだ、バカとは」
「うるさいよ。早く支度しなよ。置いてくよ」
「お前こそ早く歯みがいてこい」
馬鹿かはともかくジョークのセンスが最低だ。ベルトルトは落胆する。
懲りぬライナーをひっくり返したアニは、ベルトルトの横から皿を置いてすたすたと洗面所に向かった。歯ブラシのストックも確認しておかねば、とベルトルトは頭にメモをする。
「……あいついつから冗談通じなくなったんだ」
「冗談にも種類があるからね」
無神経だ、と指摘するとライナーが釈然としない顔で身を起こした。ライナーが釈然としないことにベルトルトは釈然としない。
最後にアニの下げた皿を洗い終え、コックをひねって水を止める。手を拭いてようやくベルトルトも朝食の用意に取り掛かった。
「あ、僕も今日バイトで遅くなるから」
「あ? 夕飯は?」
「適当に食べるから気にしなくていいよ。外でたべるなりジャンのとこ押し掛けるなり」
「あー」
どうするかな、とライナーが唸る。トースターにパンを突っ込んでからジャムを探り、ベルトルトはついでに時計を見た。七時半。
「ライナー! 置いてくよ!」
案の定アニの声が飛んできた。
ライナーははいはいと杜撰な返事をして立ち上がる。アニはこちらには顔を出さず、おそらくそのまま玄関に向かった。
ベルトルトは洗い立てのマグを手に取って布巾で拭く。コーヒーをいれる直前の段階までスタンバイして、コーヒーをいれるかどうか五秒ほど思案し、結局いれずに玄関のほうに足を向けた。
すでに玄関が騒々しい。
「待てって! 本当に置いてくことねえだろ!」
「は? むしろなんでジョークだと思ってるわけ? ゴリラなの?」
「関係な——おい誰だ靴紐かたむすびしたの」
見送ろうと思っていたのに何かゴタついている。タイミングを間違えたというより中途半端で、ベルトルトはのろのろと玄関口へ向かった。必死で靴紐をほどくライナーの背中が不憫である。
「遅刻するよ、二人とも」
「ライナーが靴紐で遊んでる」
「お前だろアニ! ハハハお茶目さんめ!」
「早くしてくれない」
やけくその勢いでかたむすびの解除に成功したライナーが、今度は慣れた手つきで紐を結び直して立ち上がった。ほら行くぞとアニの背中を促しながらドアを開ける。押すなっつの、とアニは露骨に嫌そうだ。
「——じゃ、いってくるな、ベルトルト」
「あとでね」
「うん。いってらっしゃい」
気を付けて、と閉まるドアの隙間から戯れ合う二つの背中を見送って、ベルトルトはやれやれと踵を返す。コーヒーはいれなくて正解だった。
欠伸をしながらキッチンに戻り、焼き上がっていたパンにジャムを塗る。コーヒーとトーストと、ようやく健全な朝がベルトルトを出迎えた。
(2013/10/27)