あかときの記憶
 機内に朝陽が差し込んでいる。  つい先刻だ。世界の命運を懸けた戦いに決着がついたばかりだというのに、世界とは穏やかなものだな、とクリスはいささか気が抜けた気分だった。世界だけではない。クリスにとっても長い戦いの終焉であり、そのわりにはどこか現実味が薄く、宿敵を討った実感よりもなくした重みのほうが手に残っている。  生還者はこれだけだ。  クリスはけれど、戦うことの自問はもうしなかった。  この戦いの中で答えを見つけたのだ。自分より一回りも若い女戦士が答えまで導いてくれた。彼女自身たくさんの仲間をなくし、たくさんの傷を負ったというのに、最後までクリスの背を押しクリスの背を守ってくれた。彼女がいなかったらこの戦いもクリス自身もどうなっていたか知れない。  そういう、各々の感傷がおそらく機内に充満していた。  誰も喋ろうとはせず、ジルにいたっては窓の向こうを見つめたきりだ。  自分らと別れたあとにジルはどうしたのか、ジョッシュはどうしたのか、二人がどうやって合流し脱出したのか、訊きたいことはいくらでもあった。けれど機内の空気に負け、どうにも糸口を見つけられない。結果ぼんやりしているクリスを横目に、おもむろにシェバが立ち上がった。 「ジョッシュ、デルタのみんなは――」  彼女が操縦席側の座席に移動する。その手にはドッグタグが握られており、仲間の死を分かち合う二人に遠慮してクリスも場所を移した。  ジルの横に腰を下ろすと朝陽がじかに眼球を刺激する。  目をすがめてそれをやり過ごしながら、クリスは二人の姿をどこか遠くのもののように眺めていた。ジョッシュが生きていてくれてよかった。仲間の死をシェバ一人に背負わせずに済んでよかった。同胞の死を分かち合う相手がいることの大きさも、いないことの重さも、クリスはなくした相棒を通して噛みしめてきたのだ。いちばん最初の戦いからずっと。  とんと肩に重みがかかった。  視線を巡らせると優しく陽を弾くブロンドの髪があった。消耗しきったのだろう、その瞼は閉じられており、髪と同じように色の抜けた肌も相まって生気の薄い寝顔だった。  ゆっくりと上下する胸元には投薬装置を引き剥がした痕が痛々しく残っている。彼女は傷跡が残ることを望むだろうか。厭うだろうか。おそらくどちらでもない、彼女は静かに覚悟を据えるだろう。これまでの罪業とともに生きる覚悟を。  クリスもまた、漠然とではあるが、そういう彼女の支えになることを決めていた。 「――そんな顔もできたのね」  驚いて顔を上げる。  ジョッシュと話しているものとばかり思っていたシェバがこちらを見て微笑んでいた。クリスは咄嗟に返答ができず、一度ジルの寝顔を見てから、そうかなと曖昧に笑った。 「お前のおかげだ、シェバ。ここまで戦えたのも、彼女を救えたのも」 「光栄だわ、ミスター・BSAA」  シェバが悪戯っぽく笑う。そう呼ばれる自分がたった数時間前まで戦うことに疲れていただなんて、彼女が知ったらどんな顔をするだろう。 「本心だよ。私情に巻き込んですまなかった」 「あら、私だって本心よ。彼女を救えたことだって」  彼女の視線がジルに移る。少し前まで確かな殺意を持って銃口を向けられていたはずのジルを見つめる瞳は、親愛と憧憬の入り混じった不思議な色をしていた。 「……あなたの武勇伝を聞くときはジル・バレンタインの名前もよく聞いたわ。いつもあなたの近くに彼女の名前があった。逆もそう。いつしか目標になってた、私の目指すところはここだって」 「俺の相棒という意味ならもう辿りついてるさ。だけどそうじゃないんだろう?」 「ええ。でもあなたに相棒と言ってもらえてとても誇らしかった」  クリスは笑って首を振る。この先彼女のパートナーを務める人間はきっと幸せだろう。 「……洋館事件を?」 「この仕事をしていて知らないほうがどうかしてる」  そうだな、とクリスは苦笑する。思えばあれがすべての始まりだった。バイオテロという地獄で足掻く長い戦いの始まり、そして、多くの仲間と平穏な日常を失うこととなった忌々しい事件。クリスはいまだにその時の光景を夢に見る。 「最初に仲間がゾンビ犬に襲われた。悪夢のような光景だった。ジルは腰を抜かしてな」 「彼女が? 信じられない」 「だろう。俺が間に合わなかったら一緒に餌食になってたかもしれない。放心してる彼女を引っ張り起こしてとにかく逃げたんだ」  そうだった。  自分たちははじめ、はかり知れぬ化け物を相手に一目散に逃げたのだ。  今でこそどんな局面でも冷静かつ気丈に振る舞う強さを持つ彼女だが、かつては得体の知れない化け物に恐怖しおののいた、そこから手探りで今の強さを得たのだろう。弱い心を知るジルの強さはクリスのそれよりもずっとしなやかで優しい。クリスを庇って迷わず宿敵ごと崖から転落した強さも、きっとそこに根差している。 「……あの時の彼女は、思えば今の君と同じ歳だった」 「象徴的ね。私もいつか彼女のようになれるかしら」 「お前はジルよりもずっと強くなるよ。俺が保証する」 「そんなにプレッシャーかけないで」  おどけるシェバに、けれどクリスは嘘を言ったつもりはなかった。彼女の強さはジルのそれとよく似ている。正義感が強く時に強情で、仲間を思う強さと仲間の死に足を止めぬ強さと。何より現場での戦いにおいては当時のジルよりもずっと頼りになる。 「あの頃のジルだってお前ほど肝は据わってなかったさ。今じゃ笑い話だが、途中ゾンビの頭を潰して吐いたらしい」 「普通の女性ならそれが当たり前よ」 「ジルだぞ」 「あとで引っぱたかれても知らないから」  シェバの軽やかな言葉にクリスは傍らを見やる。平手どころかグーできてもおかしくない相手であるが、静かに眠る彼女からはそんな気の強さは一切窺えず、安堵する一方でそのコントラストに少しばかり切なさを覚えた。  そうしてクリスは遠い記憶に思いを馳せる。あのときもこうして、気を失うように眠る彼女の温もりに安堵を見出だした。 「……お前を死なせずに済んでよかった」  シェバが首を傾ける。ありがとう、とクリスは笑った。  覚悟していたよりもずっと過酷な道のりだった。長い戦いの中、仲間を死なせ協力者を死なせ、挙げ句の果てには相棒さえ失った。まるで何かをなくすために戦っているかのようだった。  けれど彼女とともに戦うことで目が覚めたのだ。  なくすためなどではない、守るために戦っている。 「ずいぶん遠回しだったわね」  シェバが可笑しそうに笑った。さしこむ朝陽よりずっと眩しく思えて、クリスはじんわり目を細める。 「つまらない昔話に付き合わせたな」 「昔話? 惚気話に聞こえたけど」 「からかうなよ」  彼女の笑い声が優しく耳朶を震わせた。  今なお戦う者達を嘲笑うかのようにウイルスは流通しばら蒔かれ、現場を踏むごとに異形の化け物は凶暴性を増していく。犠牲者は増え、終わりの見えぬ戦いの中で同胞たちは次々死んでいく。そうして戦っている間にも世界は確かに破壊されているのだ。  けれど今、共に地獄を見たはずのシェバは笑っている。失ったはずのジルだって取り戻した。  いくらでも光は見出せるのだと、クリスはその事実を噛み締める。 「……俺は彼女に何かしてやれるかな」 「さあ。ひとまず指輪でも用意したら?」 「悪かったって」  操縦席でジョッシュが噴き出した。  朝陽のさしこむ機内にはささやかな笑い声が響き、寄り添うジルの体はあたたかい。彼女の手を静かに握り締め、クリスは戦うことの誇りをその空間に見つけた。

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