ブラインドエスケープ
 会議が長引いた。  逐一人の意見に食ってかからねば気が済まない上役が本日は絶好調で、会議室に次のスケジュールが入っていなかったこともあって三十分ほどオーバーした。妥協案と銘打って実にあやふやなところで議題を片付け、各々が溜め息まじりに席を立つなかジルは目を閉じて俯く。頭が痛い。  後頭部からうなじのあたりにかけてひどくだるい。すでに辛いがここから悪化することも知っていた。やって来るたび史上最悪と思わせる絶望的な片頭痛だ。  オフィスに戻れば薬もある。今さら飲んだところで手遅れかもしれないが、いずれにせよ戻らねばと立ち上がったところでパーカーが声をかけてきた。 「ジル、さっき修正が入った配置なんだが――」 「ああ、検討し直したほうがよさそうね。近いうちにまた会議入れとく」 「すまんな。あの鬱陶しい自己顕示欲野郎がいなけりゃ丸く収まったんだが」  吐き捨てられた悪態に笑ったジルは、その些細な行為すら頭痛に響いて気が滅入った。さりげなく首のあたりをさすりながら、同感、と軽く応じる。 「パーカー、悪いんだけどプロジェクタの片付けお願いできる?」 「ああ。やっとくから今日は早いとこ帰れ」 「……私、どこか変?」 「会議中ずいぶん大人しかっただろ」  まるで普段はそうではないかのような言い方である。反論の言葉はいくらでもあったが、今はとにかく一秒でも早く頭痛から解放されたいジルはそのくだりを諦めることにした。よろしく、とパーカーにプロジェクタを任せてドアに向かう。 「ああ、ジル、もしクリスを見かけたら」 「何?」 「メールくらい見ろって文句を」 「伝えとくわ」  片手を振って会議室のドアを引く。見ていないというより他のメールと一緒くたにゴミ箱フォルダに突っ込まれたのだろう。充分にあり得る。  廊下に出ると蛍光灯の光がちかと大袈裟に眼球を刺激した。重たい頭痛に一度ぎゅうと目を閉ざし、足取りが危うくならぬように注意しながらエレベータホールへ向かう。  目蓋が重たい。けれど目を瞑ると脈打つ鈍痛をより鮮明にキャッチしてしまう。悪化してきた。まずい、とげんなりするジルを呼び止める声があって、さらにげんなりする。顔見知りの管理部の人間であった。 「すみません、先週受け取った書類なんですけど抜けが」 「ああ、作戦チームのリストならクリスに確認してもらってるから別途渡すってメールしたわよ。届いてない?」 「メールは確認しました。そちらではなく予算のほうの」  ああ、とジルは息をついた。ざっと見直した際にミスを見つけて訂正しようと思ってすっかり忘れていた。 「ごめんなさい、すぐに出す」 「今週中で大丈夫です。リストのほうも」 「ありがとう」  リストのほうは急かさないとまずいかもしれない。クリスへの用件を一つ追加して彼女と別れる。  廊下ですれ違う同僚に声をかけられたり応じたりしながら、エレベータホールにようやく辿り着くとそこでも肩を叩かれた。今度は誰だ、と振り向くとバリーである。 「よう、機嫌悪そうだな」 「会議が長引いたの。それと頭が痛い」 「ああ、そいつは物騒だ。薬は?」 「オフィスにあるわ。今さら効くかわからないけど」  まあ無理はするな、とバリーがランプのついていない下階へのボタンを押した。ジルの待つ上階へのエレベータは目下フロアを目指して順調に上昇している。 「クリスに会う予定あるか?」 「仕事の話?」 「渡し損ねたファイルがあるんだ。俺はちょっとした呼び出しがあってできればそのまま帰りたい」  バリーが抱えていたファイルのうちの一冊をひらりと掲げたところで上階行のエレベータが到着した。ジルは息をついて笑う。 「いいわ、預かる。ちょうど彼へのクレームと急かす用もあるし」 「助かる」  ファイルを受け取ってエレベータに乗り込む。閉まる扉の向こうでひらひらと手を振っているバリーに軽く応じて、エレベータが動き出すや否やジルは息を吐き出した。  こもった空気がつらくて壁に頭をもたれさせる。デオドラントの残滓が鼻腔からそのまま頭痛に響いて、階段を使うべきだった、とぼんやり後悔した。階段は階段で頭痛を悪化させていたかもしれないがそれはそれである。  目蓋が重い。けれど閉じると余計につらい。片頭痛特有の吐き気もあるが吐いたところで楽になる気がしない。むしろおそらく悪化する。吐くにしてもそのまま横になれる場所がいいがそれなら吐かずに横になりたい。ジルの思考は混迷してゆく。  妙に長い時間をかけてエレベータが目的のフロアに到着した。  重たい頭を起こしてエレベータを降り、眼球を刺激する蛍光灯に辟易しながらクリスのオフィスへ足を向ける。さっさと用を済ませて薬を飲んで休むか帰ろう、とジルは首のあたりを押さえた。新鮮な空気が吸いたいところだが彼のオフィスは煙草のにおいがしそうだ。思い至ったときにはクリスのオフィスの前にいた。  少し逡巡したのち諦めて半開きのドアをノックする。  けれど音を立てるより先にドアが開いた。空振り。 「おっと、ジルか。どうした」 「いろいろ」  いろいろって、と怪訝な顔をしたクリスが、ふとジルの顔を見て眉間に皺をつくった。しかめ面に見えるが彼の場合これが何かしら案じる時の顔である。  いろいろの詮索をやめたクリスが小さく息をついて、大きな手のひらでジルの額に優しく触れ。 「大丈夫か」  人間の脳とは不思議なものである。手のひらの感触に頭痛がじわりとやわらいだ。頭を押さえるといらぬ心配をかけそうで自分自身ではできずにいた行為だ。  まだ頭は痛い。頭蓋骨が内側から圧迫されているような感覚がある。うなじのあたりもだるい。けれど彼の手のひらが少し楽で、ジルは知らず目蓋を下していた。ふらつきそうになる体をクリスが支えてくれる。 「……無理」 「風邪か?」 「ちがうの、頭がもう、割れそう……」 「ああ……、久しぶりにひどそうだな。薬はどうした」  飲み忘れた、と力なく告げるとクリスが頷いた。オフィスにあるかと訊かれてこっくり頷き、動けそうかと訊かれて押し黙る。限界である。 「まあ、あまり動かさないほうがいいのかな。取ってくるから休んでろ」  クリスが肩を支えるようにしてジルをオフィスの中へ誘導した。案の定煙草のにおいが漂っているが危惧していたほどではない。  ソファに座らされ、手にしていた資料やファイルを取り上げられる。  そこでジルは、ああ、とぼんやり思い出した。 「そのファイル、バリーから。渡しそびれたって」 「ああ、それでここに」 「あと、パーカーからクレームと、今週中にリストを――」 「ジル」  ストップをかけるように彼の手が肩に触れ、そのままゆっくりとジルの体をソファに横たわらせた。背もたれにかかっていたジャケットを手早く丸めて頭の下に差し入れる。かたい。 「詳しいことはあとで聞くよ。先にその仕事脳を休ませたほうがいい」 「ポケットに何か入ってる」 「すまん。たぶん煙草」  不器用なりに慎重を心がける手つきでジルの頭を優しく支え、もう一方の手がポケットから煙草を引っ張り出す。今度こそ枕となったジャケットにやはり優しく頭を下ろされ、ジルは静かに息を吐いた。寝てろと言って、彼の大きな手が両目を覆う。 「動けそうになったら家まで送るよ」 「クリス」 「ああ、薬が先だ。わかってる」  離れかけていた彼の手にそっと触れた。てのひらはそこに留まったが、クリスは不思議そうにジルの名を呼ぶ。ほんとうに大丈夫か、と気を遣う。 「……大丈夫じゃない」 「だろうな。仕事の話なら聞かんぞ」 「だって寝たら全部忘れそう」 「俺は君の世話を焼くのに忙しいから今聞いてもどのみち忘れる」 「あなたのそういうところ本当によくないと思う」  そもそも世話を焼きにきたはずなのだ。それがこの体たらくで、クリスにはよく言われると受け流され、ジルはいよいよ面倒になって仕事の話を諦めた。頭痛にも疲れてきた。休みたい。 「ひとまず薬取ってくるよ。他にほしいものは?」 「休暇」 「俺もほしい」  薬だけでいいな、と彼が念を押す。いつまでもくだを巻き続ける相棒にある程度のところでストップをかけなければという彼なりの配慮であろう。そのまま踵を返してしまう気配をいち早く察知し、ジルは彼の指先をくんと引いた。どうした、とそれでもクリスの声は優しい。 「ジル?」 「薬もあとでいいわ、ねむりたい……」 「……わかった。ゆっくり休め」  触れていた手を逆に彼の手に取られ、少し躊躇う気配を見せてから額にキスが落とされた。不器用なくせに妙なところで格好つけだがる男である。ジルは少し笑って、けれどやはり頭が痛くて、からかうことは諦めた。  ライターとシガレットケースのぶつかる硬い音が遠ざかり、彼にしては随分丁寧な音を立てて扉が閉まった。静寂。相棒を休ませることが目的か、それを口実にした一服が目的か、いずれにせよジルにはありがたかった。ひどい頭痛の影響で浅い眠りになりそうだが、ほどなく訪れた睡魔にジルは心置きなく身を委ねる。
(2015/07/26)

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