イージーエクスキューズ
 ノックもなしに突如開いたドアから登場したのは我が相棒ジル・バレンタインで、彼女は不機嫌と疲労困憊の中間というかやや不機嫌寄りの表情でクリスのオフィスに押し掛けてきた。びっくりしたクリスはデスクに頬杖をついたままぼんやりしてしまって、びっくりが収まったところで成り行きを見守るほかなく結局頬杖をついたままのクリスに、彼女は挨拶を寄越すこともなく慣れた動作でソファに横たわる。背もたれに放られていたクリスの上着を掴むと無造作に顔にかぶせ、その手を仰向けの腹の上に置いたところで彼女の動作は落ち着いた。つまり寝る体勢である。  落ち着くどころではないのはクリスのほうだ。どこから言及するべきか、とりあえず手始めに頬杖をやめてみた。 「……ジル?」 「お構いなく」  そんなことを言われても、とクリスは模範回答のような感想を胸に抱く。 「どこか調子でも悪いのか」 「頭が回らない。目がだるい。仕事も片付かない」 「いや、そういう調子じゃなくて」 「煮詰まったから休むことにしたの」  その気持ちは、たしかに、わからなくもない。デスクワークを延々続けていると急にふっつりパソコンも書類も見たくなくなる瞬間があって、クリスも頻繁にその衝動と戦っておおむね負けている。むしろそういうときに口を出してくるのはジルのほうである。  その彼女が匙を投げた。間違いなく仕事のしすぎだ。 「休むにしても色々あるだろ。自分のオフィスで休むなりラテでも買いに行くなり」 「そういうのも考えたわ。でも気が休まらなそうで」  その結果チョイスしたものが相棒のオフィスで腐るという選択肢なのだから恐れ入る。光栄に思うべきか呆れるべきか難しいところである。 「見ての通り俺は仕事をしている」 「だからさっき言ったじゃない。お構いなく」 「……それ苦しくないのか」  上着をかぶったまま喋っている彼女の表情は見えないが、少なくとも快適ではなかろう。そもそも手頃な上着を枕でもブランケットでもなくかぶる方向で活用するあたりが謎だ。 「電気消してって言うほど図々しくないわ」 「君のやさしさには頭が下がる」 「ちょっと煙草臭いけど」 「しつこいようだがここは俺のオフィスでそれは俺の上着だ」  しってる、と彼女の声がくぐもる。あしらっているのかあしらわれているのかだんだんわからなくなってきた。 「でもあなたの煙草のにおいって嫌いじゃないわ」 「その手には乗らないぞ。書類の相手で忙しい」 「残念」  もちろん構ってやりたいのも山々だが書類だって山のようにある。どうせ本人にもその気などない誘い文句を受け流しながら、クリスはふと、雨でも降るのでは、とガジェットの天気予報を確認した。彼女が仕事をさぼって自分が書類仕事だなんて都市伝説級だ。  というのもクリスは来週から遠征である。書類くらい片付けていかないと生還したところで怒られる。 「動かない頭使って頭痛になるより一旦諦めて横になったほうが効率いいと思わない?」 「効率の話を俺に振らないでくれ。どのみち残業だ」 「私もよ。ドラマの録画してないのに」 「してきたよ。君の残業は想定外だろうが俺の残業は想定内だ。あと先週までの分消していいか?」  ハードの空きが、と愚痴ると間髪入れずに駄目と跳ね返された。ずいぶん歯切れよく拒否されたが、問題のテレビはクリスの部屋のものである。彼女の部屋のレコーダーは動作に不具合を生じているらしいがそれを聞いたのも思えば二ヶ月ほど前だ。新調する気はないらしい。 「何回か途中で寝ちゃったの。観直さなきゃ」 「俺だって録画したいものがあるんだ。コルツ対テキサンズ」 「録画でスポーツ観戦って邪道じゃない?」 「人のテレビで録画するよりはましだ」  少しくらいいいじゃない、という類いの切り返しを期待していたというのもおかしいが、少なくとも悪びれぬ反応を想定していたクリスはそこでふっつり応酬が途絶えたことにたじろいだ。まさかこのタイミングで寝たわけでもなかろう。クリスは顔の見えぬ彼女の様子を窺う。 「……ジル?」 「……迷惑ならちゃんと言って」 「どうした」 「今だってそう。邪魔なら追い出して」  取るべきリアクションがよくわからず、クリスは一度現状を把握し直さねばならなかった。  突如デスクワークにうんざりした彼女が憂さ晴らしにクリスのオフィスに押し掛け、人のソファで人の上着をかぶってくだを巻いている。そんな彼女がおもむろに弱腰になったので面食らってしまった、という状況である。整理のしようがない。 「……情緒不安定?」 「ほっといて」  散々絡んできた挙げ句に放っておいてときた。クリスはいよいよ息をついて、デスクチェアからのっそり立ち上がると彼女の寝そべるソファに回り込む。情緒不安定を否定しない彼女は相変わらず顔を隠していて、それがどこか意地になっているようにも見えて可笑しい。 「たしかに理不尽だが」  クリスはソファの前に屈み込む。こちらの気配に気付かぬはずもないだろうが、彼女はかたくなに上着をかぶったままだ。本当に意地になっているのかもしれない。 「君はいつだってフェアで真面目だ。わきまえもある」 「邪魔だって言ってる?」 「いや」  クリスは手を伸ばして上着を捲った。拒むでもなく、突如ひらけた視界に驚くわけでもなく、ジルはただ眩しそうに目を細めている。それがすこし不機嫌そうにも見えて可愛かった。  クリスは破顔した。 「君の理不尽を聞くのは楽しい」  ジルはじっとクリスの顔を見つめ、物好きな人ねと呆れた。彼女の腕が伸びてきたので首をかがめてキスをする。触れるだけのキスを済ませると彼女はようやく微笑み、茶化すようにクリスの頬をつねった。 「私も愛してる」 「一時間後に起こすよ」 「ありがとう」  いたずらっ子のような指先を握って額にキスをする。ジルが満足そうに目を閉じたことにクリスのほうも満足して、捲った上着を丁寧にかぶせ直して立ち上がる。触れていた指が一度ぎゅうとクリスの指を握り、お、と意外がった矢先にぱたりと腹の上に落ちた。寝る体勢。  自分こそ邪魔にならぬようそろそろとデスクに戻ったクリスは、一時間、と時計を確認して緩んだ頬を引き締める。キーボードのタイプ音に気を付けながら、間違っても来訪者により彼女の仮眠が邪魔されないことを願った。
(2015/07/26)
ジルの言うドラマがスリーピーホロウでなにが悲しくて家に帰ってまでモンスター見なきゃいけないんだ的な会話を予定してたのを今思い出しました。きれいに忘れられている。

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