幸福論者はかく語りき
目を覚ますと左側にやわらかい体温が寄りかかっていた。
込み上げる疑念と混乱となけなしの下心をひとまず脇に置いて、どういう状態だ、とクリスは現場以上にややこしいことになっている事態の把握に取り掛かる。オフィスのソファで書類を捲りながら、紙切れとの格闘に限界をきたして仮眠のつもりで目を瞑った。横になると爆睡を決める自信があったので背もたれに深く凭れて、一時間だけと自分に言い聞かせて。
きっかり一時間である。
驚くべきはその間にふたりの侵入者を許したことだ。
一人は隣で寝ている。健やかな寝息が逐一心臓に悪い。
もう一人、真正面に居座る有能な部下は、羨望と辟易を足して割ってみたが割り切れませんでしたというような顔で、しいと人差し指を口元に立てた。
「おはようございます」
「……おはよう、これジルか?」
「そうです。寝てます。静かに」
当然のように牽制されてクリスはやむなく声を落とす。言いたいことも聞きたいことも山ほどあった。
「いつからいたんだ」
「俺は十分前。ジルさんはわからないですけど俺が来たときにはその状態でした」
「……十分何してたんだ?」
「器用に寝てるなあと」
見てました、と彼は揺るぎない。見てたのか、とクリスは曖昧に応じた。
果たして起こすという選択肢はなかったのか。部下の判断力を案じているとふいにジルがかすかな呻き声を立てて、クリスは思わず呼吸ごと動きを止めた。クリスだけではない。男ふたり示し合わせたように息を凝らして、この空間でもっとも優先されるべき事象をそろりと窺う。ジル・バレンタインの睡眠である。むやみに起こすわけにはいかない、と寄り添う体温を惜しむ下心もそっと添えて、クリスは声を潜める。
「見てて面白いものでもないだろ」
「あー、目の保養とか?」
「お前そっちの気あったのか」
「アンタじゃないです」
ピアーズがじっとクリスの肩口に視線を注ぐ。首の機能性の問題上よく見えないがそこには彼女の寝顔が無防備に晒されているはずで、見るな、とクリスは言いたい。
「ジルさんって」
そんな懊悩も知らずにピアーズが口を開く。
「年下アリだと思います?」
「ないだろ」
「顔怖っ」
知らず顰められていたクリスの顔を指して、その顔はまずい、とピアーズが指摘する。物騒すぎる、と人の気も知らずにのたまう。むしろわかっての上か。
「ていうか何なんです? 独占欲ぐつぐつじゃないですか、これでまだただの相棒だとか言うなら俺にも考えがありますからね」
「ただの相棒じゃない、大事な相棒だ。なんだ考えって」
「このくだり全部クレアさんに話します」
「やめてくれ」
怖い。
脳裏にちらつく物言いたげな妹の顔を振り払って、お前こそ野暮だ、とクリスは反撃に出る。
「俺と彼女の関係はこう見えて複雑なんだ。興味本位で首を突っ込むな」
「こう見えてっていうかどう見てもこじらせてるだけでしょ。興味本位なんかじゃないですよ、俺は真剣です」
「ジルはやらんぞ」
「そっちじゃないです」
ピアーズが露骨にしょっぱい顔をした。そういうとこですよ、と言い募る彼はどうやら本気で辟易しているようで、部下の言うそういうところがどういうところなのか判然としないクリスは少々むきになる。
「大体俺ばっかりせっついてどうするんだ、ジルだって俺のことは相棒としか思ってないぞ」
「うわあ」
「なんだそれは」
「いや、まあ、言い切れるあたり相棒ってとこに絶対の自信があるんでしょうけど、言っときますけどそれ何の保険にもならないですからね。相棒は相棒。そりゃジルさんにとっても隊長は大事な相棒だとは思いますけど、それはそれとして普通に男つくったりするんじゃないですか」
美人だし、ジルさん、引く手数多、などとピアーズは好き放題にクリスを煽る。たしかに美人ではあるが片手でマグナムをぶっ放す女性もどうだ。反駁すべき案件はいくつかあったけれどピアーズの言葉はなかなか鋭利に核心を突くもので、挙げ句の果てに年下受けもいい、と余計な所見まで添えられてクリスはいよいよ落ち着かない。
「……男くらいできるだろう、彼女も」
「ほら、そういうとこですよ、男できたところで結局自分が一番だってたかくくってるでしょ」
「お前さっきから痛いとこ突いてくるな」
「痛いって言っちゃってるじゃないですか」
クリスは押し黙る。部下が全然容赦してくれない。
「頼みますよほんと、無自覚のうちにフラれて打ちのめされて現場で装備とか落とされても捨てていきますからね」
「隊長を捨てるんじゃない」
「あと素朴な疑問なんですけど」
「なんだ」
「これだけ横でべらべら喋っててジルさんともあろう人がほんとに起きないと思います?」
「え」
体の左側、彼女に接触するところに全神経が集中するようだった。
クリスはこくんと唾を飲み込む。聞かれてまずいことは口にしていない。マグナムの件も幸いすんでのところで発言を控えている。けれどどうだ、部下に垂れ流した本音が彼女にまで筒抜けだったとしたら。幼稚な独占欲、自惚れと願望、うわべばかりの彼女との関係、握り込んでいた身勝手な感情が彼女の元にまでこぼれ落ちていたとしたら。
まずい、と咄嗟に抱いた感情に他ならぬ答えがあった。
長らく見ないようにしてきた、厄介で単純でわかりきった感情の答えが。
「――まあ冗談ですけど。寝てると思います」
取って付けたようなフォローを口にして、よいしょとピアーズが腰を上げる。退室の流れである。隊長を捨てるんじゃない、とクリスは先よりもよほど切実だった。
「待て、せめてジルを起こしていってくれ」
「自分で起こしたらどうです?」
「お前が余計なことを言ったせいでどんな顔をすればいいのかわからない」
「アンタいくつですか」
ピアーズが呆れる。見たところクリスの要望に応える気など一切ないようで、当て馬はごめんなんで、とすげなく一蹴してクリスを見下ろした。
「せいぜい意識して変な感じになってあわよくばお幸せに」
「雑だ」
「こっちの身にもなってください」
限界です、とピアーズが両手を広げる。いい加減幸せになってくれないと、と彼の声にはまるでそれが紛れもない使命だと言わんばかりの力強さがあって、俺がか、とクリスはつい気圧されてしまった。アンタとジルさんです、とピアーズは断言する。
「アンタらが幸せなら世界も平和な気がする」
「話がでかいな」
「俺らにとってはそんなもんです」
散々勝手なことばかりを口にして、それじゃお邪魔しましたとピアーズはあっさり踵を返してしまう。業務上の用件もなかったあたり本当に見ていただけらしい。本当に何をしにきたのだ。
容赦のない愛と優しさに耳が痛すぎて耳鳴りまでしそうだ。お節介な部下の主張も忠告も、長年積み重なった自惚れもその脆さももちろんわかっている。わかっているけれど、とクリスは天井を仰ぐ。世界平和よりもずっと難儀な気がしてならない。
彼女はいつ起きるのだろう。無性に煙草が吸いたかった。
(2020/08/02)