メメントモリ
 キジュジュの悪夢から長らく続いた検査の日々を終えてようやく病院から解放されたジルを、クリスは渡すものがあると言って家に呼んだ。  彼女は上がれるような部屋ならねと言って笑った。顔色も顔つきもひどかった帰還直後に比べると、彼女はこの数ヶ月でずいぶんとかつての色合いを取り戻しつつある。髪の色も肌の色も抜け落ちたままだったが、それでも、凛とした佇まいも笑い方もクリスの記憶とたがわぬものだった。やっと自由の身かと冷やかせばすっかり体がなまってしまったとたくましい愚痴が返ってくる。そういう女性だ。そういう女性だということを、帰還から過保護になりがちなクリスにも少しずつ思い出させてくれた。  部屋はゆうべ片付けた。  遠慮がちに上がった彼女が、不自然に片付いた部屋を見渡して懐かしそうに笑う。クリスはその横顔を見て途方に暮れた。泣きたいような笑いたいような、得体の知れぬ感情が胸の内を焦がした。 「適当に座っててくれ。下手にいじるなよ。即席で片付けただけだからボロが出る」 「了解したわ。おとなしくしてる」  ジルはくすくすと笑う。色素の抜けた、まだ見慣れぬ色合いに不思議と馴染んだ笑い方だった。  クリスはコーヒーを用意しながら、宣言通りソファで大人しくしているジルを盗み見る。  彼女は柔らかい眼差しで部屋を眺めていた。手持ち無沙汰な様子など微塵もない。三年ものあいだ無縁だった、なんてことのない生活の香りを堪能しているようにも見える。  なんてことのないソファ。なんてことのないコーヒー。  こんな空間をまた彼女と共有できるだなんてと、感慨深いのはクリスも同じだった。 「ミルクは?」 「少しだけ。できれば砂糖も」 「わかった」  リクエスト通りにいれたコーヒーを彼女に渡して、クリスは少し待っててくれと言い置いてクロゼットに向かった。  乱雑に物が突っ込まれただけの空間に、唯一、目当てのものだけが息をひそめて鎮座している。  クリスはずしりと重たいそれを手に取った。わざわざ彼女を呼んだ理由は他でもない、これを本来の持ち主に返すためだ。  傷だらけのベレッタ。  書類上では持ち主とともに行方不明の扱いとなっているはずだった。無力感とともに提出した報告書で銃の行方を言及され、彼女が所持したままと回答した覚えがある。その時の感情をつぶさに思い出すことは今では難しいが、おそらく、ささやかな義務感であったのだと思う。これは自分が持っているべきだと。直視することもつらいそれを戒めとするつもりで、そのくせ、持ち主の名残などとうになくしたベレッタがクリスに与えるものは感傷ばかりだった。思い出すのは銃を構える彼女の横顔やリロードの手捌き、そんなものばかりだった。  残念ながら手入れは行き届いていない。  いささかくすんだようにも見えるそれを持って、クリスはジルの隣に腰かけた。 「これを君に返したかった」  無骨な銃を彼女に手渡す。  わずかに目を瞠らせたジルがマグを置いた。彼女はクリスの手からそっと愛銃を受け取り、その手に銃身の重みをじっくりと味わってから、ありがとう、と静かに微笑む。伏し目のつくり出す睫毛の影が美しかった。 「……あなたが持ってくれている気がしたの」 「言っておくが預かっていただけだからな」 「ええ、わかってるわ。ありがとう」  細い指先が、いとおしむように銃身を撫でる。  クリスはそれを見つめながら、ありがとうという言葉を静かに反芻させていた。彼女の愛銃だなんて端からすれば形見と呼んで差し支えない代物だ。それを頭ではわかっていながら、クリスは馬鹿みたいに彼女の生存を己に言い聞かせ、未練がましく彼女の愛銃を預かっていた。  無意味だという自覚はあった。彼女の死という現実から少しでも遠ざかりたかっただけだと。  預かっているという名目が時間とともに現実味をなくしていく。  三年もの月日、クリスは頭のどこかで、彼女の死を受け止めてさえいたのだ。 「……クリス?」  俯くという芸当もできなかった。  ジルがベレッタを脇によけて手を伸ばす。  驚くほど自然にこぼれた涙ごと、彼女の両手がクリスの頭を抱き寄せた。 「クリス」 「……俺は君の墓の前でも泣かなかった」 「あなたらしいわ」 「泣けなかったんだ。泣くほどの度胸がなかった」  寄せられた肩に顔を押し付ける。こわいほど華奢な肩だった。情けなく垂れたこうべに頬を寄せ、ジルは細い腕で精一杯クリスを包み込む。 「君の三年間を思うと、残酷かもしれない、それでもひとつだけ言わせてくれ」 「何?」 「生きていてくれてありがとう」  戦うために力をつけた腕は、こういう時、抱き締めることに不便だ。  壊してしまわぬよう、慎重に痩躯を抱きしめる。慎重に抱きしめ方を思い出す。記憶よりもいくらか痩せたからだは、それでも、不思議とやわらかさは変わらぬまま。  不器用な腕の中で、ジルがゆっくりと体の力を抜く。 「私も同じ」 「ジル?」 「あの三年間は死ぬよりもつらい毎日だったわ。殺してくれと何度も思った。だけど」 「……ああ」 「だけど、生きていてよかった」  ありがとう、と。  彼女の声は泣いているようにも聞こえた。  無機質な銃に寄りかかっていただけの心がほぐれていく。夢に見ることすら叶わなかった体温と鼓動がただ優しく、クリスはすがるように彼女の体を引き寄せた。
(2013/12/06)

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