過ぐる悪夢に口づけを
揺れたデスクからペンが転がり落ちる。落ちかけたノートを抑えようと伸ばされたジルの手を、クリスは握り締めるように縫い止めた。
ノートはあっけなくクリスの足元に落下した。生存者のメモの残った重要なノートである。今後の自分たちの生死を左右する貴重な情報だって記載されているかもしれない。そうとわかっていながら、それでも今は不思議なほどにどうでもよかった。
彼女のからだが震える。小綺麗なデスクが軋んだ音を立てる。彼女の横でウィルスの情報を映し出すモニタはむなしく画面を光らせたままだ。
ここが安全な場所である保証などどこにもない。
他のフロアよりも異形の気配が薄く、だれかの痕跡が強く残っていた、それだけだ。おそらくそのだれかはとうに異形と化したか食われたかのどちらかであろう。現実と非現実が相まって箍が外れた。簡単な現象だ。
「ん、ッ……あ」
「……きついか」
「い、から、早く」
デスクに乗り上げた形のジルに口付けて、ほつれた髪に指を絡めながらしつこく唇をねぶる。
ジルのしなやかな脚が腰にからみついた。早く終わらせろという野暮な催促かもしれない。なんでもよかった。単純なからだはじくりと内側で熱を上げて、クリスはたまらず彼女のなかを突き上げた。
「ふあッ、ぁ、ん……!」
「ジル……」
脇腹をなぞり、肌蹴た衣服をかいくぐって手を滑らせる。じっとりと湿ったてのひらで湿った肌を辿り、胸をさぐるとジルがいっそう体を震わせた。
「んぅ……っ」
「声を、ジル」
「いやよ、見つかる……」
「化け物しかいない」
「ッぁ、ば、けものに、見つかるって言ってるの……っ」
たしかにこんなところを襲われたら終わりだ、とクリスはどういうわけか他人事だった。彼女の言い分はこんな状況下にも関わらず理性的だ。クリスのそれはとうに本能に焼き尽くされてしまったらしい。浅ましい欲望のまま彼女の体を求めた。
「――っ、んン……ッ!」
「……強情だな」
「っ、あなたって、ほんとうに……」
息を詰めたジルがそろりと手を伸ばす。首からぐいと引き寄せられて、なんだその気ではないかとクリスはされるがままに彼女の首元に顔を寄せた。やわらかい皮膚に歯を立てる。ジルは身を震わせながらゆっくりと手を伸ばした。
ホルスターから重みが消える。
カチリと状況にそぐわぬ無骨な音。細い腕がクリスの首を抱きこむようにして銃身を支えた。震える呼気が、少しでも平静を取り戻そうと大きく息をする。クリスは華奢な肩口に鼻先を埋めて息を潜める。
タン、と銃声。反動が彼女のからだから直に伝わる。ジルが微かに息を詰める。
続けざまに三発。うち一発はかつんと外れた音を響かせた。
濁った断末魔。崩れ落ちる肉塊の音。
少し間を置いてからジルがぎこちなく力を抜いた。
「……片付いたか?」
「一発無駄にしちゃった」
「珍しいな、きみが」
「誰のせい――んッ」
彼女がセーフティに指を掛けた音を聞き、クリスは待ちわびたとばかりに深く攻め立てた。突き上げるそれをきゅうと締め付けながら、ジルは悲鳴をくぐもらせるようにクリスにしがみつく。その手にはいまだ銃が握られたまま。
「――ま、って、待って、クリス」
「ジル……」
「や……っ、ぁ、だめ……っ!」
だめなものか。クリスの脳髄がじくりと焼け付く。
人間味のない空間、現実味のない行為、息をひそめる異形と銃を手に喘ぐ彼女、得も言われぬ背徳感がクリスを掻き立ててやまない。
絶頂の手前で震えるジルが覚束ない動作でクリスの唇を求める。意図を汲んでやってキスを交わしながら、噛まれぬよう舌を引かせて深く腰を押し付けた。
ジルのからだがびくりとわななく。
抑えきれぬ悲鳴があえかに溢れた。
追うようにしてクリスも低く呻く。傍迷惑な欲望を彼女のなかに吐き出して、そのまま崩れるように柔らかい体に身を寄せた。
絶頂に震えるジルはそれでも銃を離さぬままだ。それがどういうわけか途方もなく愛しくて、クリスは今度こそ優しく口付けた。
***
きっちりと身なりを整えたジルの第一声は、情事の名残りの欠片もない、今後に関する危惧であった。
「……蹴りがうまく決まらない気がする」
「そうか? 君が思ってるよりも君の蹴りは凶悪だぞ」
「試してみようかしら」
「すまなかった。反省してる」
どうだか、とジルが弾丸ケースを放って寄越した。クリスは黙ってハンドガンのマガジンを外す。
弾を補充する傍らでジルが床に広がったノートを拾い上げていた。完全に忘れていた。彼女は目を細めてメモを読み、次いでモニタを一瞥し、やれやれと肩をすくめる。この状況をやれやれで片付けるあたり休暇を取らせたほうがいいかもしれない。
「Tの品種改良が頓挫したみたい。突然変異種が暴走してこの惨状」
「突然変異か。管理がなってないな」
「失敗は誰にだってあるわ」
「リカバリーがなってない」
「同感」
ノートを置いたジルが自身の装備を確認する。クリスは弾丸ケースを返すついでにショットガンの弾を手渡した。軽口はともかく、彼女が体術に自由のきかなくなった原因と責任くらいは自覚している。
「君のリカバリーは俺が務めるよ」
「頼りにしてるわ。あなたのせいだけど」
「……説教は生きて帰ってからじっくり聞く」
「そうね、説教もいいけど、生きて帰ったらもっといいことしましょ」
危うくハンドガンを取り落とすところだった。
「――やる気出てきた」
「はいはい」
ジルが呆れながらフォアエンドを引く。ガシャンと無機質な音。
互いの表情が引き締まる。非現実も潮時だ。
目線だけを交わし、行こう、と今いちど地獄へと足を踏み入れる。
彼女がいるのだから地獄も楽園も目ではなかった。
(2014/05/03)