息をするように恋をした
通りゆく子どもたちの高い声、低く唸るエンジンの音、平凡な日常を飾るささやかな雑音を窓の向こうに聞いて、クリスは鈍い瞼をのろのろ持ち上げた。
カーテン越しに差し込む光が朝を告げている。爽やかな朝と表現するには頭が重く、意味を成さぬなにかを呻いてクリスは重だるい体を起こした。もぞとシーツが波打つ。うん、と自分でないだれかのうめき声。
一瞬で頭が冴える。
え、と間の抜けた声まで取りこぼした。
ジルが寝ていた。隣で穏やかな寝息を立てる相棒はおそらく、というよりほぼ間違いなくシーツの下は何も纏っていないはずで、目下の自分もまったく同じ状態で、視線を巡らせると互いの衣服がベッドの隅でくたびれている。その衣服を纏った昨日の彼女を思い出し、それが呼び水となってふつふつと昨夜の記憶が蘇ってきた。盛大に線引きを誤った自覚もばっちりある。お約束の早とちりという可能性も早々に立ち消え、クリスは重みの増した頭を支えるように右手で顔を覆った。
「――やっちゃった?」
驚いて振り返る。内なる悲嘆をそのまま口にしたかのような台詞は、よりによってその言葉の深刻味を担う当人によって代弁されていた。
ジルは寝そべったまま悪戯っぽい笑みを浮かべている。現状にそぐわぬ彼女の表情と、寝ていたのでは、という動揺とで、クリスは情けなくも言葉に詰まってしまった。
「……起きてたのか」
「今ちょうど。起きたらあなたが頭を抱えてるから笑っちゃった」
「昨夜の自分を呪いたい」
「そうね、ずいぶん酔ってたわ。二日酔いは大丈夫?」
二日酔いも何もない。酒気のおおむねは吹き飛んでしまった。
彼女の言う通りたしかにひどく酔っていたのだ。
要因を探せばいくらでもある。彼女と飲む時間が久々だったこと、互いに大きな任務のあとだったこと、愚痴と昔話に押される形でそれなりに飲んだ。まずいな、と飲みながらでさえ自覚したことも覚えている。
そのアラートは一体どこでクリスを見離したのだろう。いい歳をして何をやっているのだ、とクリスは二日酔いとは別のところで頭が痛い。
「……君は」
「私はあなたほど飲んでないわよ」
「違う。君はどうしてそんなに冷静なんだ」
ジルがふつりと口を閉ざす。これまでの悪戯じみた色合いを捨てた、妙に静かな瞳がクリスのそれとかち合った。
「……冷静に見える?」
「少なくとも俺よりは」
そうかしら、と彼女は少し笑った。クリスの心になにかちくりと突き刺さる、そういう笑いかただった。
「ジル?」
「冷静に見えるのは……そうね、意地みたいなものかしら。何でもないふり」
「それはどういうメリットがあるんだ」
「メリット? 簡単よ、あなたを困らせたくない、これまでの関係だってなくしたくない、何よりあなたのことで傷つきたくない」
起き抜けの掠れた声が不思議な感傷を滲ませていた。
思いがけない本音を真正面から向けられ、クリスはまともな言葉がひとつとして思い浮かばない。今までの関係を大事にしてきたのはクリスだって同じだ。彼女を傷つけたくないことだって勿論そうで、何より彼女とのこれからだって望んでいる。
けれど、傷つきたくないと言う彼女を、ならばどうすれば傷つけずに済むのか、不器用が過ぎる自分では到底答えを見つけてやれない。こういう時ばかり役に立たぬ頭がひどくもどかしい。
「困ってる?」
「それなりに」
「……後悔してる?」
弾かれたように振り返る。彼女の声は穏やかだった。
「……ジル?」
「私は大丈夫よ。なかったことにだってできるわ」
大丈夫、とジルは、言い聞かせるようにその言葉を繰り返す。
彼女の言わんとすることを理解するまでに少しかかった。理解したところで返すべき言葉が見当たらず、そこでようやく、自分がひどくショックを受けていることに思い至る。なかったことに、と彼女はそう言った。揺れぬ瞳を見せて、その下でどんな感情を押し殺しているのかクリスには知りようもない。堅物と笑われる自分では彼女の繊細な感傷など到底理解してやれない。
けれどひとつ、押し殺すべきと判断した彼女の心が、ただ淋しかった。
「――違う」
「クリス?」
髪を挟まぬよう細心の注意を払って、クリスはジルの頭の脇に手をついた。覗き込んだ瞳がまっすぐにぶつかる。動揺すら見抜かれそうな澄んだ眼差しだ。
「違うんだ、ジル」
ひとつ息を吸う。できればこれ以上の擦れ違いを生まぬよう、彼女を傷つけることもなく、つまびらかに自分の感情を伝えなくてはならなかった。こんなことは滅多にない。そしておそらく得意でもない。クリスは慎重に言葉を選ぶ。
「……後悔はしてる。だが君とこうなることにひとつも後悔はない。こういう形になってしまったことをひどく後悔してるだけで」
「こういう形って?」
「なかったことにだなんて言わないでくれ」
「だって、困ってるって言ったわ」
「こうやって伝えるつもりはなかったんだ。もっときちんと伝えたかった」
言葉が途切れる。不安定な沈黙を互いの視線だけが繋いでいた。本来の距離感を失ったこの状況で、むやみに距離を詰めるクリスから逃げることもなく、ジルは静かに息をつく。
「……聞くわ。でもできれば簡潔に」
「努力する。いや、噛まずに言えたらの話だ。なにせ言い慣れてない」
「あなた相変わらずジョークが下手ね。噛んでもちゃんと聞くわ。ちゃんと言って」
何か返そうとして、やはり冗談のひとつも思いつかなくて、クリスは無意味な言葉を諦めてうなずいた。彼女は変わらぬ瞳でクリスの言葉を待ってくれている。
たくさんの感情があった。伝えたい言葉も、伝えずにいた言葉も伝えるべき言葉もたくさんある。彼女と共に過ごした時間、共に負った傷、笑い合えたことと支えられたこと、掬うべき感情はあまりに多くて、到底口下手な自分の手に追える代物とは思えない。
けれどたくさんの感情も、たくさんの言葉も、口を開いてしまえばすんなりと形を成した。あまりに自然な感情だったのだ。これまでとこれから、彼女との関係を大きく包み込む感情だ。
「……君を愛してる」
静かな声をしていた。地獄よりもひどい戦場を駆け抜けてきた自分が、こんなにも穏やかな声で、こんなにも穏やかな感情を告げられることに、クリスはひとつの安堵すら見出した。
ジルの睫毛がかすかに震える。ゆっくりと瞬きをした彼女は、クリスを見上げてようやく彼女らしい微笑みをその顔に浮かべた。
「……言い慣れてる?」
「奇跡的だ。噛まなかった」
「可愛くないわね」
「可愛げがあったら酒の勢いで手なんて出さない」
そうね、と彼女が喉を鳴らす。大人になったと言えば聞こえはいいのだろうが、そのくせ自分は不器用なままで彼女は器用なままで、その結果今を迎えているのだから、ある意味、最高に自分たちらしい。
「君の口からは?」
「噛むからやめておくわ」
「そうか」
これ以上言葉を求めることも野暮に思えた。頬にかかった髪を優しく払ってやり、今さら気恥ずかしそうに笑っている彼女に顔を寄せる。
唇を触れあわせた。かさついたキスがくすぐったい。
ついばむようにもう一度。
鼻先の触れる距離で彼女の双眸を覗き込む。
深い瞳にたくさんの感情を滲ませながら、ジルは息を吐くようにわらった。
「……お腹がすいた」
「俺もだ」
名残惜しさに今いちど口付ける。たしなめるように頭を叩く彼女の、柔らかい笑い声が耳に優しい。
「何か食べよう。それから」
「デート?」
「ああ、君さえ良ければ」
そうね、とジルの手がクリスの髪を掻き上げる。多くの傷を作りながらもこうしてクリスをあやす、彼女の手つきは今までと変わらぬようで少し甘やかだ。
「ゾンビ抜きのデートなら、喜んで」
これまでとこれから、そうして曖昧だった感情に名前をつける。
決まりだ、とクリスは笑いながら彼女の手を取った。たとえゾンビがいても君と一緒なら。ジョークのつもりで思い付いたそれは、よくよく考えるとジョークにすらなりそうもなく、やむなく黙っておくことにした。