オーバーステップ
 ふつりと意識が戻ってきて、その拍子にペン先が妙な模様を描いた。  クリスは解読不能となった文字列をまんじりと眺める。報告書ならいざ知らず、始末書が相手ではいちから書き直す気も起きず、少し考えてから結局その文字列だけをどうにかすることにした。上司にはねちこく言われそうだがどうせ書き直したところでねちこく言われるのだ。  息をついて後ろを振り返る。  自分と同じく残業に勤しむ背中は、自分とはかけ離れた生真面目さを滲ませていた。 「ジル」 「どうぞ」  ジルが振り向きもせずに修正テープを差し出す。  クリスはいくらか複雑な心境でそれを受け取った。 「……たすかる」 「どういたしまして」  無機質な言葉を受け取り、無機質なデスクに向き直ってキャップを外す。彼女が持っていなければ上から濃くなぞるか何かして誤魔化すつもりだった。 「寝てたでしょ」 「お見通しだな」 「やけに静かだったから」 「静かに始末書を書いてるという可能性もある」 「……あるの?」 「……ないな」  残念な沈黙の中で残念な文字列を消していく。静かに始末書を、と言えば彼女のほうこそ珍しかった。真面目は普段通りとしても残業だなんて。 「俺も当てようか」 「なあに」 「このところ元気がない」 「……お見通しね」  ジルが笑った気配がした。背中の向こうのすぐそこ、互いの距離感はいつも通り、けれど表情の見えないことが便利なときもある。 「彼氏と喧嘩でもしたか」 「惜しい」 「惜しい?」 「別れたの」  クリスはくるりとペンを回した。しまった。地雷を踏むつもりはなかった。 「……その、すまない」 「いいわよ、別に。思ったほどこたえてないし」 「そうなのか?」 「昔の私ならもっと落ち込んでたかもね。確かに少し淋しいけど、思ったよりあっけらかんとしてて自分でもびっくりしてる」  確かに彼女の声はあっけらかんとしている。昔、というのがどのあたりの彼女を指すのかはわからないが、思えばここに配属されてすぐの頃より、彼と喧嘩したと言って八つ当たりされる頻度も減った気がする。予兆じみたものはあったのかもしれない。 「学生の頃はね、彼のいる世界が私の世界の全部だと思ってたの。とにかく彼と一緒にいたかった。だけどそういうのって疲れるのよね」 「ロマンチストには向いてないな、きみは」 「そうね、ここの世界のほうがよっぽど向いてるわ」  ジルは笑っている。そうか、と応じながらクリスは彼女の横顔に思いを馳せていた。任務中の彼女の横顔だ。  彼女の横顔はいつだって綺麗だ。もともと綺麗な顔立ちではあるが、それとは次元の異なる、たとえば性別をも感じさせぬ不思議な美しさがある。眼差しは凛々しくも涼やかで、銃弾を放つ瞬間のわずかな呼気も、キーピックを扱う鮮やかな指先も、時に冷酷な判断を下す真っ直ぐな双眸も、すべて完璧で美しい。前線でこそ際立つ彼女の才覚も美貌も、けれどやはり女としては少々損だ。そうしてそれを損だと本心では微塵も思っていない、彼女の彼女らしい性分がいちばんの損なのだ。 「……銃とキーピックの世界か」 「そこにピアノを並べると変かしら」 「映画みたいだな」 「色褪せそうな映画ね」  その気のない口振りである。少し色褪せているくらいの映画のほうが好みだ、という台詞は、さすがに気障すぎて言えなかった。 「……映画なんかよりずっと物騒な世界だろう」 「おまけにノンフィクションだしね。いいのよ、こっちのほうが。ここにいる自分が好きなの」 「そういうものか」 「そういうものよ。誇れる仕事だってあるし、あなただっているし」  え、と危うく動揺が声になりかけて、クリスは平静ぶってペンを回した。キャッチしそこねたペンがかつんとデスクに転がる。駄目そうだ。 「……それは、少し、自惚れそうだ」 「そう?」  とんとんと軽やかな音が聞こえる。ジルが書類を揃えているところだ。帰ってしまうのか、と手元の片付かぬ始末書を眺めながら、彼女とのやりとりを名残り惜しむ。 「送ろうか」 「大丈夫よ。そういうのは自惚れてから言ったら?」 「駆け引きは苦手なんだ」 「しってる」  ジルが笑いながら席を立つ。助かった、と修正テープを肩越しに差し出すと、抜群のタイミングで抜き取られた。 「気を付けて帰れよ」 「あなたもほどほどにね」  また明日を交わしてジルがデスクを去っていく。退室ぎわにようやく目が合い、少々悪戯を含んだような笑みがクリスの胸の内をくすぐった。まるでティーンエイジャーだ。  足音が遠ざかっていく。取り残された沈黙が妙に気まずい。耳が熱い、と自覚して、クリスは余計にいたたまれなくなった。  自惚れそうだなんてものじゃない。もうとっくに自惚れている。  背中越しにもきちんと伝わってしまった感情は、けれどどうにも背中越しに伝えるべき言葉ではなくて、結局感情も言葉も自惚れも持て余したまま、クリスは目下、ひとまず煙草が吸いたかった。
(2014/03/27)

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