Rallentand
夜が深く、音がない。浅く浮上した意識のなか、ジルはうっすら瞼を持ち上げた。
夜闇の向こう、壁と天井の陰影をかろうじて認識する。それをぼんやり見つめながら、ジルはじっと耳を澄ました。かすかに聞こえる雨の音。雨足は強くない。しとしとと降るそれはほかの音を呑み込み、静寂より深く孤独を浮き彫りにする。
ジルはゆっくりと息を吐く。こんな夜は嫌いだ。
ありとあらゆる感覚が遠のき、戦う心さえなくしたあの時を思い出す。どんな化け物にも屈しなかった自分が、どんな化け物にも強く立ち向かうと決めた自分が、恐怖だけを抱えてうずくまるしかなかった、あの時の弱さをまるで突きつけられるかのようで。
「ジル……?」
生ぬるいシーツのなか、寝返りをうって体温を求める。シャツ越しにもわかる、人より高い体温だ。彼の肩口に顔を押し付けると、たくましい腕がそっと背中に回った。
「どうした……? 嫌な夢でもみたか?」
クリスの声はいつもよりいくぶんも優しい。眠りの縁にいるせいだろう。ジルは答えようとして、けれど答えるにはきっと声が不安定で、結局首を振るだけに終わった。
「ジル?」
「……起こしてごめんなさい。なんでもないの」
互いの、囁くほどの声が闇に沈みゆく。低い声が優しく鼓膜を震わせて泣きそうになった。大丈夫だ、とジルは自分に言い聞かせる。もうあの時とは違うのだと、零れ落ちそうな感情を堰き止める。
「――……ああ」
そうか、とクリスが息を吐くように呟いた。ジルの頭に大きなてのひらが寄り添う。
「雨が、降ってるな……」
ジルは応えずに、ひとつ、心もとない深呼吸をした。
無骨な指先が緩やかに髪をくしけずる。幼子をあやす仕草とは少し違う、むしろ感情の吐露に手を差し延べるかのような触れ方だった。
こういう時の彼の優しさはひどく厄介だ。自分でも知らず堅くつくっていたガードを簡単にくぐり抜け、感情の奥底にくすぶる弱さも虚勢も大きく包み込んでしまう。ジルはいつも感情に困って、いつも取り繕うように笑うしかできない。
「……あなたの体ってほんとうに温かいのね」
「ああ、便利だろう」
「こどもみたい」
くすくす笑う、そのかすかな震えごとクリスは抱き寄せてくれた。
子供はいったいどちらだろう。見てもいない悪夢に怯えて、寒がって、縋るところを求めてやみくもに手を伸ばす。それすらも叶わぬ、あの時の本当の恐怖は孤独だった。
「……あの時も、今も、独りなんかじゃないのに」
「こわいか?」
「自分でも情けないってわかってるの」
そんなことはないとクリスが否定する。そう言うだろうと思っていた。たとえば、彼が同じことを呟いたとして、自分だって同じことを言うのだ。
「きみが、感情を持って、生きている証拠だ」
「そうね」
不器用な言葉と不器用な優しさが温かい。支えて支えられてきた大きな腕にくるまれながら、ジルはいつかの記憶に思いを馳せる。しっかりしろと叱咤してくれた若い傭兵に、本当はひとりにしないでと縋りつきたかった。ひとりが怖かった。けれどそうやって、孤独と恐怖だけがジルを人間に繋ぎ止めていた。
「……いつか、彼とお酒を飲みながら、あの時のことを笑い合うのが夢なの。悪夢のラクーンシティを笑い話に、そういう日がきたらって」
「不謹慎だな」
「不謹慎ね」
ジルは口許だけで笑う。俺に任せろと奔走してくれた、そういえば彼は今ごろどこでどうしているだろう。生きているだろうか。生きていたらきっと自分たちと同じように戦ってくれているのだろう。生きていてほしい。
「笑うのも、怖がるのも、生きた者勝ちだわ」
口にしてから涙が溢れた。どうしてこんなに空しいのだろう。
涙の意味も、泣きたい感情も、ジルはいまだにわからないままでいる。あまりにたくさんの同胞の死を前にしてきた。一人一人の死を悼む暇すらなく、自分が生きることに必死で、無理やり嚥下するほかなかった感傷が、おそらくこうして、自分の死の縁の記憶とともにせり上がってくるのだ。彼らは死んで自分は生きている。何が違うのだろう。
「ジル」
「……お願い。めいっぱい抱き締めて」
ないまぜになった感情が途方に暮れている。どの感情を掬い上げて泣けばいいのかわからない。
クリスは何も言わずに抱き締めてくれた。緩やかな呼吸とくぐもる鼓動と、大きく包み込んでくれる体温にゆったりと身を預ける。力強い腕が少し苦しくて温かい。そうして息苦しさと温もりとを全身で受け止める。生きているのだ。
「……止むかしら、雨」
「……ああ、きっと止むさ」
彼の首元に顔を埋める。涙は拭わずに好きにさせておいた。好きなだけ零れたらいいのだ。
クリスがおやすみと言って頭にキスをした。まるで外界を隔てるような抱擁が不思議と雨音をも遠ざけて、ジルはおやすみなさいと心置きなく目を閉じる。心地よい温もりは過去の残滓をゆっくりと、けれど確かに溶かしてくれていた。
(2014/08/10)
わたしの中でジルは弱くなるよりも不安定になるイメージというか願望というかがあるんですが結構強めに抱いてたんだなと思います。カルロスの名前出し損ねてぼんやりした存在になっちゃったのは申し訳ないと思ってる。