ウィット・リダイレクト
 意外性の欠片もないと笑われた。そういう呆れるほど単純な形でクリスはデスクワークが苦手だった。  室内の空気はひどい有り様である。どう足掻いても打ち解けられぬ書類との睨み合いを続けること二時間、気付けば時計は二十一時を指そうとしていて、オフィスには二時間ものあいだ己から放出され続けたであろう淀んだ空気が漂っている。  仕事が片付かない。目を通さねばならぬ書類もあれば作らねばならぬ書類もある。理不尽だ、とクリスは納得がいかない。この組織の創設に携わったことに誇りはあるが、それにしたって下手な肩書きなど受け取るものではない。  クリスはマグを掴んでのそりとデスクから立ち上がる。  気分転換も兼ねてコーヒーでも調達しにいくことにした。  時間帯もあって人気のないフロアは、それでもクリスと同類の存在を示すように煌々と明かりをつけたままだ。  エネルギーの無駄だな、と無駄を甘受しながらのろのろと廊下を歩く。コーヒーマシンはフロアの奥まったコーナーに自販機とともに置かれている。  湿気た給湯室に到着すると先客がいた。 「あら、クリス」 「ジル」  ジルはちょうどデキャンタからコーヒーをマグカップに注いでいるところだった。仕事の状況と考えるところは大体同じであろう、彼女も残業だ。 「残業なんて珍しいわね。いったいどれだけさぼったの?」 「真面目にやってるさ。手強くてかなわん」 「普段もっと手強い化け物相手にしてるじゃない。相変わらずデスクワークだけは要領悪いんだから」 「君の爪の垢でも煎じて飲めば少しは成長するかな」 「私だって嫌いよ」  彼女がデキャンタを傾けてくれたので大人しくコーヒーを注いでもらう。  量はいくらか控えめ、デキャンタを置いた手でジルがミルクをクリスのマグに追加した。コーヒーの色がぐるりとまじわう。続いて砂糖。 「というかいつ戻ってきたの? 中東にいるって聞いたけど」 「先週戻ってきた。昨日お偉方へのおおまかな報告だけ済ませて、今日から溜まりに溜まった机仕事と楽しい報告書だ」 「ご多忙ね」 「おげさまでな。君は?」 「明日潜入捜査に出向くわ。マークしていたサークルが動きを見せそうなのよ。潜入だなんて響きがスリリングよね」 「勇ましいな」  マグカップにマドラーが突っ込まれた。かき混ぜるところはセルフサービスらしい。 「あまり無茶はするなよ」 「肝に銘じておくわ」  くすくす笑う声を聞きながらコーヒーに口をつける。じっとりとした甘味が口内にひろがり、彼女の笑い声も相まって、がちがちに固まった脳がほぐれる感覚がした。 「あなたが私の心配をするなんてね。父親みたい」 「君に父親と言われるなんて光栄だ」 「変わったってことよ。年も取ったわけだし」  そうかな、とクリスは記憶を辿る。そろそろ十年近い付き合いだ。今でこそ同志と呼べる彼女は、かつてはともに血塗れで修羅場を切り抜けた戦友であり、たしかにあの頃は、彼女が無茶をすれば心配するよりも頼もしく感じていたようにも思う。 「パートナーだろう。相棒を心配するのは当然だ」 「そうね、そういうことにしておくわ」  ジルは含んだように笑う。  すでに暖の逃げたであろうマグを手のひらで包み、あなたも書類相手に無茶しないでね、と遠回しな労いをかけて彼女はゆっくり踵を返した。  変わったというなら彼女も同じだ。クリスはその薄い背中を、遠くのものを眺めるように見つめる。  苦いと顔をしかめていたはずの彼女がいつの間にか無糖のコーヒーを手にするようになった。自分の感情にも他人の感情にもまっすぐだったはずの彼女は、いつの間に、あんなにもしなやかな笑い方を身につけたのだろう。 「ジル」  雑談もほどほどに仕事に戻ろうとする生真面目さは相変わらずか。  足を止めたジルの腕を掴み、彼女の振り向きざま、クリスは掠めるようにキスをした。 「……私たちパートナーよね?」 「ああ、そのつもりだ」 「パートナーってキスするものだったかしら」 「解釈によるな」 「そう。だったらあなたの見解について是非レクチャー願いたいわ」  ブルーの瞳をすがめて、ジルはやや怒っているようだった。呆れられているのかもしれない。 「君が無事に帰ってきたら食事にでもいこう」 「縁起でもないフラグね」 「これまで散々へし折ってきたじゃないか。得意だろう」 「どうかしら。今までとは事情が違うから」  臆さぬ双眸が近い距離からクリスをまっすぐ見据える。この眼差しのしたたかさが変わらぬことに一種の安堵を覚えて、それにしても、彼女の瞳をこんなにも間近で見るのは初めてだ。これまでの距離に思いを馳せる、それはきっと彼女も同じだった。 「あなたとの食事よ」 「ああ、それも意味深だ」 「そうね」  ジルはクリスから一歩分の距離を取る。この距離はまだ時期尚早だと、生真面目な彼女なりに訴えているようで可笑しかった。 「堅物のあなたにしてはなかなかの誘い文句ね。せいぜい無事に帰ってくるわ」  肩を竦めたジルが再び背を向ける。  もう一言くらいと気の利いた台詞を探したが見つからず、クリスは黙ってその背を見送った。彼女は廊下に出るすんでのところで、ああと思い出したようにクリスを振り返る。 「あなたこそ書類はやっつけておいてね。仕事の後回しなんて嫌よ」 「ああ、肝に銘じておく」  余裕ぶって笑うと彼女は今度こそ去っていった。  遠ざかるヒールの音と手中のコーヒーだけが取り残される。中途半端にデキャンタに残ったコーヒーが何かを訴えていて、クリスは取り繕うようにマグカップに口をつけた。  砂糖入りをすっかり失念して危うく咽せ込むところだった。どういうわけか先とは段違いに甘いコーヒーを恨みがましく見つめる。クリスはひとつ息をついてから、一気に飲み干してデキャンタの残りをマグに注ぎ、彼女の言いつけ通り目下の敵をやっつけるべくデスクに戻ることにした。

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