めぐる相乗作用
 残業に付き合わせた負い目もあって送るよと申し出たクリスに、ジルはなめてるのと笑って警官バッジをちらつかせた。市民を守る義務が、とクリスはしかつめらしい顔でこちらもバッジを示し、首を傾けるジルに口角を持ち上げる。 「君にちょっかいかける命知らずの輩を君がぶちのめす前に守らなきゃ」  飛んできた拳を避け、二人で笑いながら帰路につく。いつもと変わらぬ夜だ。  仕事の愚痴に始まり、バリーのところの夫婦喧嘩、アメフトの話を持ち出してあしらわれ、馴染みの検視官の笑い話、途中で寝てしまった映画の話、と話題は尽きない。実のない話をだらだらと繰り広げ、悪態をついて笑ってとやっているうちに彼女の家まで着いてしまった。あっという間だ。なんだか名残惜しい気分で、じゃあまた、とポケットに手を突っ込んだクリスに、ジルは少し黙したのちにドアを指差す。 「コーヒー飲んでく?」  願ってもない話である。  いいのか、と遠慮のふりすら忘れたクリスに、ジルはもちろんと笑って鍵を差し込んだ。錠の外れる軽やかな音。 「送ってくれたお礼」 「次は俺が君にコーヒーのお礼?」 「報告書溜めないっていうサインなら喜んで」  ジルがドアを開けてクリスを促す。  電気そのあたり、とあとから帰宅した彼女に言外に電気を頼まれ、クリスは壁沿いにスイッチを探って明かりをつけた。彼女はドアの施錠を済ませてクリスをリビングへと誘導する。 「散らかってるけど。適当にくつろいでて」 「散らかってる? 俺の部屋を見せたい」 「見なくてもわかる」  キッチンに向かうジルの背中に笑いながらクリスはソファに腰を下ろした。足元にクッションが転がっているのを発見して破顔する。拾い上げてソファに置き、そのまま緊張を意識せぬよう背もたれに寄りかかる。  何気なく部屋を観察して暇を潰す。散らかっていると彼女は言ったがせいぜい生活感が漂っているという程度だ。ローテーブルの上にクレアがよく読んでいるような雑誌が放られていて、それと一緒にハンドグリップが置かれているのを見て笑ってしまった。彼女らしい。  ほかの男がこの部屋に上がる時、きっとこのハンドグリップは真っ先に片付けられるのだろう。  それを思うといくらか気分がいい。 「砂糖入れすぎたかも」 「平気さ。ありがとう」  彼女からマグを受け取り、たしかに少し甘いコーヒーを堪能する。俺の好みだ、と言うとジルは嘘つきと笑って隣に座った。彼女の手中には揃いのマグが。 「部屋の粗探ししてたでしょ」 「とんでもない。そのハンドグリップだってすごくキュートだ」  頭を張られてクリスはわざとらしく首を竦める。馬鹿にして、と口を曲げる彼女が可愛い。 「次にあなたを上げる時は一番に片付ける」 「それはもったいない」 「何よそれ」  コーヒーに口をつける彼女を横目に、何と言ったものかとクリスは言葉を探す。誤魔化してしまうなどそれこそ勿体ないし、当たり障りのない、けれど少しくらい含みを持たせておける台詞がいい。クリスは学生時代以来ろくに使っていなかったあたりの脳を酷使するが、君のすべてを知りたい、というドラマの台詞が浮かんでうっかり撃沈するところだった。却下。 「気の置けない同僚の特権だ」 「じゃあ私の特権はあなたの残業を手伝えることかしら。感激」 「悪かったって」  助かったよ、と取りなすとジルが肩を震わせる。笑った拍子に腕が触れてぎくりとしてしまった。 「でも本当かも。あなたといる時間が増えると少し得した気分」 「じゃあ報告書はためる」 「定時に上がって飲みに行くって選択肢はないわけ?」 「どうせバリーとかフォレストがついてくるんだろ。君の部屋で二人きりなんておいしい状況」  みなまで言う前に彼女の肘鉄が入ったので、いて、と大袈裟に呻いて切り上げた。本当のことなのに。  呆れたような笑い声を期待して隣を見ると、ジルは笑顔の一歩手前くらいの表情で、推し量るような視線をクリスに向けていた。一瞬のことである。冗談がすぎたか、と反省するクリスに何事もなかったかのように笑いかけ、彼女はマグをローテーブルに置く。 「じゃあおいしい状況の記念にDVD貸してあげる。さっき話してた映画」 「光栄だな。観ろって?」 「ぐっすり眠れる」  ああそうと気のないクリスを構いもせずにジルが立ち上がった。返す時に口実になるかな、とクリスはコーヒーを口にしながら、せめてもの有用性を模索する。  結局ハンドグリップは雑誌とともに鎮座したままだ。次に訪れた時は果たして同じものを味わうことができるだろうか、とぼんやり考える。同僚として目にする彼女のプライベート。  ほかの男がこの部屋に上がるところを想像する。  クッションはきっちりソファに上げられ、ハンドグリップはもちろん目につかぬ場所へ。雑誌も綺麗に整頓されている。きっとクリスが手にしているこのマグが使われるのだろう。そうしてこのソファに。  嫌だな、と感情が濁る。  本当のところは、そんな一言では片付かぬ、もっとじっとりと重たい情動だった。 「クリス?」  顔を上げるとジルが件のDVDを差し出していた。  突如として得体の知れぬ焦燥感にかられる。クリスは差し出されたケースではなく、彼女の細腕を掴んで背を浮かせていた。 「ジル――」  と、ふいに華奢な手が肩に触れ、捉えたはずの彼女の視線がぶれる。ゆると近づく影が明かりを遮り、ぼんやりするだけで役に立たぬ瞳をクリスがぱちりと瞬かせたとき、それまで触れていた唇がゆっくりと離れた。  伏せられていたまぶたの下からブルーの瞳が覗く。クリスの双眸が見開かれる様を見るなり、彼女の目許が悪戯っぽく歪んだ。 「合ってる?」  ささやくような声に心臓が跳ねる。  すごいな、とクリスは虚をつかれながらも笑うほかない。 「以心伝心だ」 「これも気の置けない同僚の特権かしら」 「今のは同僚のキス?」 「これから次第ね」  ジルがそっとクリスの手からマグを奪い取り、流れるような仕草でローテーブルに置いた。晴れて両手の空いたクリスは、その手を彼女のほそい腰に。 「本当はコーヒーのお礼としてもらおうかと思ったけど」 「むしろ俺の返すものが増えた。コーヒーのお礼にキスのお礼」 「そうね」  しなやかな腕がクリスの首に絡みつく。腰に回した手で彼女を引き寄せると、ジルの膝はいとも簡単にソファに乗り上がった。密着する体が熱い。 「じゃあ、返して」  クリスは目を細めて頬に手を添えた。そのまま髪に指を差し入れ、後ろ頭をおさえて引き寄せる。手始めにやわらかいキスをして、二度三度互いの唇をついばみ、鼻先の触れる距離で一度視線をかわす。  熱を孕んだ瞳が上機嫌そうに煌めく。クリスはちらとローテーブルのマグを示した。 「コーヒーでよかった」 「どうして?」 「酒のせいにしないですむ」 「言えてる」  弧をえがくジルの唇をいよいよもって荒っぽく塞ぐ。唇を食んで互いの唇をなぶるようなキス。ん、と色っぽい声をもらした彼女をソファに組み敷き、彼女のいれてくれたコーヒーよりもずっと甘ったるいキスに没頭する。  押し倒した拍子に落下したクッションが視界の隅にちらついた。上がる前にクッションが落ちていたのはまさかこういうことでは、と妙な邪推がめぐる一方、やはり報告書はためるべきだなとクリスは傍迷惑な算段をつけていた。
(2015/06/06)

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