密やかなるトリガー
 役目を終えた資料をファイルに片付けて、プロジェクタのスイッチを落としてコードを巻き取り、ノートパソコンを閉じる。最後に無人の会議室を見渡して、ジルはふうと息をついた。  オフィスに戻ればまた仕事が待っている。 本当なら会議に出るよりもデスクに向かっていたかった。山積みにさせるほど要領は悪くはないが、一息入れたいが迷うくらいにはタスクが残っている。  気分も重いし頭も重い。しかしここでぼんやりしていても埒があかない。  戻ろう、と切り換えをつけてパソコンを抱えたところで、ふいに会議室のドアが開いた。 「――あれ」  入ってきた男とばっちり目が合う。彼はあれという言葉通りに拍子抜けした表情で、少々間抜けた様子にジルは笑ってしまった。笑った拍子に凝り固まった脳がじんわりとほぐれる。人間の脳なんて単純なものだ。 「迷子かしら、キース? 久しぶりね」 「ああ、やあ、ジル。会議室を間違えたらしい。北米支部はダンジョン仕様か?」 「私からすれば本部のほうが迷路だわ。物覚えのいい相棒はどうしたの?」 「機械オタクグループで一足先に会議中さ。イケメンでポンコツの俺は置いてけぼり」 「そう言われたのね」  いかにも彼らの間で交わされそうな軽口を想像してジルは笑った。イケメンでポンコツという言葉に妙な愛嬌があり、その愛嬌の滲み方が彼の相棒らしくて余計に可笑しい。 「まあ、でも、君の顔も見られたことだし、結果オーライかな。相変わらず綺麗だね」 「ありがとう。あなたも相変わらずね」 「いい男?」 「よく回る口」  キースはどうもと笑いながらテーブルに腰をかける。 「君こそ相棒は?」 「オフィスじゃないかしら。先月分の報告書がたっぷり溜まってるはずだから」 「気持ちはよくわかる」 「ああ、あなたもデスクワークとは相性悪そうね」  よく似てる、とノートパソコンを抱え直す。光栄だねとおどけたキースは、そのまま、おどけた表情を崩さずに顔を近づけてきた。隙のない目元でずいと迫られて、さしものジルも顎を引かせる。 「それじゃいずれは俺も君のパートナーに願い出てみるかな」 「あいにくだけど、あなたの相棒ほどシステムはいじれないわ、私」 「仕事の話じゃない」 「……ひょっとして口説いてる?」 「俺の愛称を知ってるかな」  軽やかな口説き文句がむしろ彼らしい。ジルは肩を震わせて笑った。 「しってる。有名よ」 「だったら話は早い」 「ええ。でも――」  ばたんとドアが開いた。不自然な至近距離からキースが顔を上げ、一緒になって会議室の入り口を見ると互いの相棒がセットで立っている。自分たちがどう映っているのかは知らないが、少なくとも向こうの組み合わせは面白いほどにちぐはぐだ。 「ジ」 「グラインダー! まったく君という人は、どこで女性を引っかけているかと思えば! 命知らずにもほどがありますよ!」  何か言いかけたクリスを遮る形でクエントがずかずか会議室に入ってきた。  ジルはひとまず片手を広げる。 「ハァイ、クエント。微妙に引っ掛かる言い回しね」 「ああ、ジル。どうもご機嫌よう。貴女のお相手だなんて他の男が黙っちゃいないという意味です。何より会議室で愛を育むだなんて三流映画気取りも甚だしい」 「ああ、ああ、わかった。悪かった。迷ったんだ。これから向かうところさ」 「当然です! さあ行きますよグラインダー、迷子の挙げ句身のほど知らずに女性を口説いている君をみんなが待っています!」  突風に巻き込まれてそのまま連れていかれる体でキースが引っ張られていく。大人しくずるずると引きずられていく彼の姿が可笑しいやら微笑ましいやら、笑いながら見守っていると、最後にキースがひらりと手を振った。 「それじゃあ、ジル。また」 「ええ。気をつけて」  振り向いたクエントが引きずるキースごと会釈して、その様にジルがまた笑っているうちに会議室のドアが閉じた。  ドアの向こうに彼らの応酬が遠ざかっていく。賑やかだ。現場でもこの調子なのだろうか、と少し羨ましくなりながら、ジルはようやくクリスを振り返った。 「で? あなたは私のお迎え?」 「そうだな。うっかり口説かれてる君に見せてもらいたいファイルがあるんだ」  ジルは少々面食らう。皮肉だなんて彼にしてはずいぶん珍しい。 「……意外と余裕ないのね、あなた」 「君はずいぶんと余裕だ」  そうね、とジルは肩をすくめる。その気のない口説き文句にいちいち胸を踊らせるような性格でもない。 「クエントは?」 「途中で行き合っただけさ。往生してたようだったからしらみ潰しに案内してやった」  つまり、たまたま彼らの行き着いた会議室で、たまたま自分が口説かれていたというところだろう。口説かれていたという表現もいささか怪しい。女たらしの愛称を持つ彼にしてみれば挨拶のようなものだ。 「満更でもなさそうだな」 「そうね、悪い気はしないわ。私もまだまだ捨てたものじゃないわね」 「……」 「あなたは不満そうね、クリス?」  からかうように指摘するとクリスは余計に眉間の皺を深くした。物騒だ。ジルは意地悪く笑って、パソコンと資料を抱え直しながらドアに向かう。 「それで? 用があるのは何のファイル? 先月の――」 「ジル」  ドアにかけた手に一回り大きな手が被さり、驚いて振り向くとあからさまに不機嫌そうなクリスの顔がすぐそこにあった。  名を呼ぶ声が低い。うっかり動揺してしまったジルは、うわべの平静だけをどうにかキープする。 「ちょっと、出られない」 「キースからは逃げなかったじゃないか」 「別に逃げてないわよ。ファイルが見たいって言ったのはあなたじゃない」  それとも、とたった今落としかけたパソコンを握り直す。捕まれた手が熱くてそちらにばかり気が行ってしまう。 「それとも、まさか、やきもち?」  覆い被さる掌に力がこもった。痛いと訴えかけた声は言葉になりきらず、ノブから引き剥がされた手を乱暴に引かれてジルは息を呑む。力任せにドアに押し付けられて今度こそパソコンを落とすかと思った。慌てて持ち直したところでクリスが覆い被さってきて、あ、と思う暇もなく唇を塞がれた。 「――ん!」  片手は資料を抱えている。片手はクリスに押さえつけられている。動かぬ体のかわりに顔を逸らして抵抗を試みたものの、頬まで押さえられてジルはいよいよ逃げ道をなくした。 「……っと、待っ……ッ」  ぬるりと舌まで押し入ってくる始末である。驚いて噛みそうになった顎をクリスの親指が押さえる。口の中から舌も思考も、いいように蹂躙されてジルの眦に知らず涙が滲んだ。 「ふ、……ッ」  こぼれた唾液がつうと顎を伝う。ようやく口を離したクリスが指でそれを拭った。  ずるりと力の抜けた体をドアに預け、ジルはかぶりを振ることで無理やり脳味噌を稼働させた。熱に持っていかれて危うく機能を放棄するところだ。幾度も絶望的な状況を切り抜けてきた自慢の判断力は、どうにか彼を睨むという命令にだけ成功した。 「……職場よ、ここ」 「ああ。まるで三流映画だ」  悪びれずにのたまうクリスが、そんな顔で見るな、と瞼に口づけた。そもそもが仏頂面に近い顔なのでわかりづらいが、先までの不機嫌は一方的なキスで発散しきったらしい。ジルは彼の現金さにむしろ毒気を抜かれてしまった。 「……面倒な人って言われない?」  雑だし、とドアから身を起こす。クリスはよく言われると肩をすくめた。 「雑のほうが多いかもしれない」 「面倒な人」 「嫉妬なんて大概が面倒臭いだろ」  自分で言っていれば世話ない。ジルは反論を諦めて彼にパソコンを押し付けた。変に力んでいたせいで腕の筋がいたい。  今度こそドアを開け、籠ったような会議室から新鮮な空気を取り込む。まだ落ち着かぬ心臓のために、ジルはひそかな深呼吸をひとつした。
(2014/02/07)

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