アン・ブルー
眠りのふち、重たい思考の奥のほうで、かすかに違和感を訴える声があった。
クリスは呻いて得体の知れぬ声に抗う。まだ眠れる、まだ眠りたい、頑なに睡眠を欲する一方で、その声を無視すべきではないと本能的に嗅ぎ取る自分もいた。なにかが変だ。職業柄休息のさなかに叩き起こされるなど珍しいことではなく、緊急の出動要請、救難信号、同僚の訃報、それに比べたらまだましな寝覚めだ、とクリスは回りくどい理屈を並べてようやく瞼を押し上げる。
部屋の空気はしんと冷たい。慣れ親しんたベッドの中、無視しきれなかった違和感の正体はすぐに判明して、何がましだとクリスは身を起こした。
「ジル」
隣で眠るジルの呼吸が荒い。
秀麗な面差しは苦痛に歪み、不自然に強張った肩が声にならぬ叫びを堰き止めているようでひどく痛ましい。せめて声を上げられたら楽だろうに。銃器に見合わぬ華奢な肩を揺すると、うう、と呻くような声が噛み締められた歯の合間から漏れた。
「起きろ、ジル」
かぶりを振ったジルがもがくようにクリスを拒絶する。ジル、とクリスは先より強く肩を揺さぶった。目を覚ませ。クリスの強い声に反応したジルが、ひゅ、と鋭い呼吸とともに飛び起きた。
不自然に聞こえた呼吸、それはきっと悲鳴だった。日ごろ強く煌めく双眸は焦点をなくし、ジルは震える両手でその胸元をかきむしる。衣服が縒れて爪が食い込み、白い肌に血が滲んで、それでも尚足りぬと傷を抉る。クリスは慌てて手を伸ばした。
「ジル!」
体ごと抑え込んで細い手首をとらえる。痛みも傷も厭わず自傷を続けようとする彼女の力は強く、クリスは乱暴とわかっていながら彼女を無理やりベッドに押さえつけた。ジル、と悪夢にとらわれるその名を呼ぶ。
「ジル! しっかりしろ!」
ふ、とジルの双眸に焦点がともった。その眦からほろりと涙がこぼれる。
強張っていた体から力が抜けて、クリス、と掠れた声が荒い呼気に混じって聞こえた。
「大丈夫か、ジル」
「わ、私」
「うなされていた。大丈夫か?」
「ええ……、大丈夫よ、ありがとう」
ジルの瞳から溢れる涙が止まらない。ぼろぼろと感情のない水滴を流しながら、ジルのほうは、まるでそんなことに気づいていないかのような表情だった。
クリスは顔を顰める。とめどないジルの涙をぬぐい、それでもなお彼女の目元は濡れ続け、やがてジルのほうが律儀ねと笑う始末だった。見るに堪えない笑い方だった。だって彼女は泣いているのに。
「あなたがそんな顔しないで」
「無茶を言うな、泣いてる自覚はあるだろう」
「そうね、きっと涙腺は壊れちゃったのよ。だって私が泣くなんて考えられる?」
「勘弁してくれ」
ジルはいつもこうしてクリスをあやした。彼女の涙腺が正常であることも、その涙がどんな意味を持つかも、自分も彼女もよくわかっている。なぜ彼女は笑っていられるのだろう。息苦しいほどの彼女の強さも、こんな顔しかさせてやれぬ自分も、クリスはひどくもどかしかった。
「……血が出ている。痛いだろう。泣くのは当たり前だ」
「クリス」
「俺だって、ひどい夢を見て、起きたら泣いていることがある。情けない話だが、当たり前なんだ」
「情けなくなんてないわ。それに、あなた、今だって泣きそうな顔してる」
「ジル」
彼女はやはり笑うだけだった。だって、とその涙はとまらない。シーツがほとほとと濡れていく。
「だって痛いなんて言えるわけないじゃない。苦しいだなんて。私がどれだけのものを傷つけたか知ってる?」
「君は被害者だ」
「わかってるくせに」
そうだ、よくわかっている。被害者面して逃げ続けるだなんて、そんな生き方を彼女が選ぶはずがない。長い付き合いであるクリスが誰よりもよくわかっている。
けれど感情は理屈ではない。現に彼女は泣いているのだ。クリスは、クリスのほうが、いよいよ泣きたかった。
「……なら、せめて、少しでいい、俺になすりつけてくれ」
「そんなこと」
「俺の力がたりなかった。死に損ないは俺で、俺のせいだとなじってくれ。俺は――」
「クリス」
その時、彼女が初めて不安定な色を見せた。
クリスを呼ばう声が心許ない。向けれらた瞳がゆらりと揺れて、それまで強かであり続けたはずの双眸は、どこか怯えているようにも見えた。
「やめて。そんなことを言わないで」
「ジル……」
「まるであなたを失う道が正しかったみたいだわ。失う虚しさなんてあなたが誰よりもよくわかってるのに」
目元が歪む。危うい感情を滲ませる彼女は、不思議なことに、まるでほんとうに泣いているかのようだった。
だったら、とクリスは声を絞り出す。だったらどうすればいい。何ができる。彼女ばかりが傷を抱えて、まともに泣かせてやることすらできないのでは隣にいる意味なんてないだろうに。
「……わがままを言っても?」
「ああ。何だって聞いてやる」
「傍にいて」
ジルの白い手が、クリスの肩にそっと添えられる。
「たくさんのものを傷つけた、それを私の犯した罪だと一緒に受け止めて。きっとあなたも辛いわ。それでも傍にいてほしいの」
「ジル」
「私と、私の罪と、一緒に生きて」
ジルが無理に微笑んで、人生最大級のわがままね、と冗談めかした。拒絶を怖れ、優しさに縋り、クリスが否と言わぬことを知っていて、そうやってクリスを縛り付けることを胸の内で糾弾する、微笑みと涙の奥にくすぶる葛藤がよく見えた。
クリスは彼女の細い首元に顔をうずめる。
ここにきてようやく、抱き締めるということを思い出した。
「……君の人生最大級のわがままなんて、俺も人生ごと応えるしかない」
「あなたはいつもそうやって私を甘やかす」
「甘やかしたくて仕方ないんだ。君にはきっとわからない」
投薬の影響で彼女の肌はかつてのそれよりもずいぶん白い。真新しい血の色、 忌々しい装置を引き剥がした痕、治りかけの固い皮膚の感触、白い肌に残った傷の痕跡がいっそう痛ましく、クリスはそろりと唇を寄せた。美しい肌はあの日以来、こうして傷を増やしていく。癒えることを許さぬかのように傷が絶えない。
「……俺もわがままをいいか」
「何?」
「君の傍にいさせてくれ」
互いが互いの傷を抉る。互いの存在が互いの傷をしつこく知らしめる。
不毛なことくらいわかっていた。それでも傍にいたいのだ。傍にいてほしいのだ。
二人分のエゴが重なる。
寄り添うと言えたらよかった。
「そんなの、私のわがままがわがままじゃなくなっちゃうじゃない」
「別のを聞いてやる」
「ずるい。私のが先だったわ」
「なら」
今はうわべだけの、取るに足らぬ会話を交わす穏やかな夜が、いつか無条件に訪れることをクリスは願う。
「どうか、泣かないでくれ」
無器用な指先で涙を拭う。
目を見開いたジルが、むずかしいわがままねと笑った。笑って、また、泣いた。
小さな懺悔が聞こえた。ごめんなさい、と彼女の声が滲む。感情の伴う涙を隠すように擦り寄るジルを、クリスはやり切れぬ感情ごと大きく抱きしめた。
(2013/12/28)