アップサイドアップ
クレアが検視局にいると聞いて顔を出すと、どういうわけかジルの姿まであった。
レベッカを交えて三人で談笑している。身内の欲目を抜きにしても彼女らはうつくしく、そうでなくとも女性たちが楽しげに笑いあう場となれば目の保養と表現するのが相場だが、戦線での姿をよく知るクリスにしてみれば華よりも迫力がある。けして口にはしないが。
「クリス」
コーヒーの用意をしていたレベッカがクリスに気づいて片手を上げる。クリスはそれに応じながら、物騒だな、という言葉を飲み込んだ。
「楽しそうだな」
「ほんと? 物騒だなって顔に見えた」
「口にしなかった俺の危機管理能力を褒めてくれ」
あなたの顔のほうがよっぽど物々しい、とジルが挨拶も抜きに軽口を叩く。いえてる、とクレアが同意するのでクリスは何も言わずに肩をすくめた。このふたりをまとめて相手取るほど命知らずではない。
「それで? またクジラか?」
「笑える」
レベッカからマグを受け取って口をつける。思いのほか濃くて顔を顰めると、レベッカの淹れるコーヒーは濃い、とジルが少々遅いアドバイスをした。
「みんなも一度篭りきりで仕事してみたらいいわ、これくらいじゃないと正気でいられないから」
「私は報告書だけで手一杯」
「それは俺への当てつけか?」
ジルは何食わぬ顔でコーヒーにミルクを足している。
「そういえばここに何の用?」
「俺の妹が来てると聞いたんで一応顔を見にきただけだ。というかおまえこそどうしたんだ、クレア」
「レベッカと飲みに行くからここで待ち合わせ」
「検視局で?」
洒落てるな、と付け足すと二度とコーヒー出さない、とレベッカが笑った。彼女はまだ仕事が片付かぬようで、モニタの前に戻るとあと十分と宣言してキーボードを叩き始める。
「君も行くのか、ジル」
「私は今日先約があって」
「レオンに先超されちゃった」
「レオン?」
思いがけない名前が登場した。
クレアとレベッカが意味ありげに視線を寄越す。クレアに至っては若干笑っている気配さえしたが、それはいいとして、肝心のジルがこちらを見もしない。
「レオンと飲むのか?」
「そう」
「二人で?」
「ええ」
「これから?」
「これから」
クレアが顔を俯かせてそそくさとレベッカの隣に逃げる。顔は見えないが十中八九、笑うに笑えずそれでも笑えるのでなんとか噛み殺している、という顔をしているに違いない。レベッカは諦めたようですでに笑っていた。
一方のクリスはそれどころではない。
「――聞いてない」
「言ってない」
目を眇めたジルがようやくクリスを見た。
「問題ある? 別にいいでしょ、飲みに行くくらい」
「別にいいが黙っておくことないだろ」
「言うタイミングがなかっただけ。しばらく任務続きだったし、任務中にこんな話されて集中できる?」
「今聞かされて混乱するよりはましだ」
「そんなこと言ってすぐ装備落とすくせに」
「話逸れてないか?」
ここでクレアが限界をきたした。噴き出した彼女はレベッカの肩に撃沈し、そのまま声を殺して笑っている。
「あとこの状況ものすごく面白がられてる気がするんだが」
「というかあなたがあなたの妹に面白がられてる感じ」
「そうか? レベッカまで笑ってないか?」
お構いなく、とレベッカが高らかに告げる。どう考えてもこのあとのいい酒の肴だ。
聞きたいことも確認したいことも山ほどありすぎて、おそらく時間は限られているだろうにクリスはひとりで静かに混乱していた。当の彼女はどこ吹く風で時間を確認している。
「……二人でっていうのはレオンからか」
「言うと長引きそうだから言わない」
「言わないほうが長引くだろ」
「あなたってこんなに面倒くさかった? 念のためどっちに妬いてるか聞いていい?」
「君は俺の妹をそんなに窒息死させたいのか」
クレアはいよいよ虫の息である。相当不毛な応酬を交わしている自覚のあるクリスは窘める気にもならず、せめてレベッカはと隣を見ると彼女は彼女で口元を抑えていた。手は止まっている。
「大体あなただってレベッカと飲みに行ったりするでしょ、それと何が違うわけ?」
「それをあえて黙ってたりはしない」
「今言った」
「流れでな。この期に及んで君の口は重そうだし」
自分が目下どんな顔をしているのかなど知りようもないが、ふいに目を細めたジルが物騒、と短く告げるので少なくとも穏便とは無縁であろう。彼女の双眸には呆れとも諦観ともつかぬ中途半端な感情が滲んでいて、そこにすこし挑発の色が見える。
――挑発。
「そんなに怖い顔しないでよ、レオンとは一杯やってそのままクレアたちと合流する予定なんだから」
クレアに視線を向けると、彼女のかわりにレベッカが初耳、と応じた。ぜったいに嘘だ。
「まんまと君にからかわれたことくらいしかわからない」
「話すタイミングがなかったのは本当。誘われたのは先週だけどお互い任務次第って感じで決まらなかったし、今日飲もうって決まったのも昨日だし、今日はあなたと全然会えなくてここで初めて会話した」
「別に直接話さなきゃいけないってこともないだろ」
「そう? 私はじかに話したかったけど、あなたって鈍いから変に勘繰られても嫌だし」
クリスは鼻に皺を寄せた。ずるい言い方である。彼女の言い分は捉えようによっては甘やかだったし、そしてクリスが鈍いことは紛うことなき事実だ。
「クレアたちと合流するのは?」
「今さっき決まった。クリスも誘おうかって話になったけど来る?」
「行くよ。というかレオンとの一杯は何なんだ」
「アルカトラズで借りがあって」
借り、と意外がるとジルが肩を竦めながら、銃なくしちゃって、とうそぶいた。
「危うくリッカーに食い殺されるところだったの、だから一杯奢るって話」
「変だな、さっき君に装備を落とすとかで責められた気がする」
「責めてない、話逸らしただけ」
ここでレベッカが、終了、とパソコンのキーを叩いた。
こちらに対する宣告かと思ったが違った。同僚の大人げない舌戦に晒されながらも仕事はきっちり片付けたようで、レベッカはうんと伸びをすると残りのコーヒーに口をつける。
「装備落としがちなおふたりさん、こっちは終わったけどそっちはどう?」
「もうすぐ終わる」
「一方的にな。俺の妹は息してるか?」
生きてる、とクレアが片手を振った。若干鼻声である。
スマートフォンを確認したジルが、そろそろ行かなきゃと呟いてクリスを見上げる。種は明かされた。けれどクリスはどうにも釈然としない。
「勘繰るのはなしでからかうのはありなのか」
「ありでしょ」
「妬くのは?」
「あり」
ジルが満足げに微笑んだ。
華奢な手がそっとクリスの肩に添えられ、顔を寄せた彼女が頬に短くキスをする。クレアとレベッカがはやし立てるような声を上げたがクリスは黙殺した。
「レオンからあなたの話を聞きたかったの、ここ数年で私の知らないことも増えたし」
「レオンとの現場なんて数えるほどしかないぞ」
「でもあなたとレオンってなにか特別でしょ。私が聞きたいだけ、深い意味なんてない」
深い意味、とクリスは口を曲げた。そうは言っても割り切れるものではない。触れたままだった彼女の手が宥めるように肩を叩くので、クリスはその手を取る。
「君の言葉を信じないわけじゃないが妬けるものは妬ける」
「あなたがそんな台詞言えるうちは大丈夫よ、ぐっときた。ていうか彼って本命いるんじゃないの、クレア?」
「私に聞かないで。知らないし知りたくない」
ジルが視線を向けた先でクレアは両手を広げている。お手上げのジェスチャ。クリスが口を挟もうとするとノーコメント、と先手を打たれてしまい、クレアはそれきりこの件に関して口を閉ざしてしまった。
思わずジルを見る。聞くだけ聞いてみる、と彼女が視線で応じた。散々子供じみた振る舞いをしていたくせに、こういう局面では相応の頼もしさを見せるのだから扱いが難しい。
「じゃあそろそろ行くわ。レベッカ、あとで連絡する」
「オーケイ、なんかだめそうな兄妹は私に任せて」
「だめそうって何」
「全員面倒くさいってこと」
去ろうとするジルの手を往生際悪く握りしめると、離れぎわ、彼女が一瞬だけその手を握り返した。そういうところ、と彼女が目で笑っている。そういうところだ、とクリスのほうもよっぽど言ってやりたかった。
レベッカが白衣を脱いで帰り支度を始める。一服したい、と愚痴ってはみたが彼女らには届かなかったようで、クリスのそれは結局乾いたため息となって終わった。
(2023/07/21)