ユートピアはまだ遠い
 生存本能が放出し続けたアドレナリンもヘリから降りてしばらく経つとさすがに落ち着いて、現場からそのまま放り込まれた病院での検査中ジルの戦う相手は猛烈な睡魔だった。救援のヘリの中でもアドレナリンが切れなかったのは墜落という展開に心当たりがありすぎたためである。  脳味噌どころか体中の部位も機能もすべてが休息を欲している。いやに入念な検査と処置を終えて、ようやく病院を出たところで似たような顔をしている兄妹がジルを待っていた。  ジルに気づいたクレアが片手を広げる。 「ハイ、ジル。検査中はよく眠れた?」 「寝てたの? どうりで元気そう」 「ほんと一刻も早くベッドに潜りたい。誰がいちばん軽症か賭ける?」 「それ前にやったけどクリスがいると賭けにならないわよ」 「おかげさまでしぶといものでな」  軽口を叩いている間にもクレアは欠伸をしていたしジルは一度きつく目をつむっている。クリスは持ち前の体力で二人よりは落ち着いている様子だったが、そんな彼であっても目元にはしっかり疲労困憊と書かれていた。というかよく考えたら一度感染したはずだ。この男。 「今にもしにそうって言っていいと思う?」 「ぎりぎりジョークになるからいいんじゃない?」 「今にもしにそう」  たとえば今ゾンビの大群に襲われたとしても一分で殲滅できる自信がある。眠すぎて。  クリスだけが一服したいという顔をしている。 「そういえばレベッカは?」 「先に終わって職場に戻ってる」 「職場に? 正気?」 「ワクチンのことで後処理があるらしい。俺はこのあと顔出しに行くが君はどうする?」 「ここで帰るほど薄情じゃない」 「心を殺すって言ってたからな」 「麻痺してるから気をつけろって誰かさんが言ってた」  オーケイ、とクレアが割って入った。その辺にして、とまるで母親のような口を利く。年長ふたりを諌める所作が妙に板についていて、なんとなく分の悪いふたりは黙るほかない。 「心優しいふたりは検視局に戻って彼女が倒れる前に帰らせて。私はひとりだけ別の病院に送られた不憫な誰かさんを見てくる」 「ていうかなんでレオンだけ別なの?」 「提携してる病院が違うんだと。万が一感染してたらどうするつもりなんだろうな、被害が大きくなるだけだ」 「万が一というか感染したんだけど」  これが軽口で済むのだから大概だな、とジルは他人事のように呆れる。クレアに至っては発症しかけたはずだ。ワクチンの効力がどれほどのものか生憎ジルに知るすべはないが、その後元気にロケットランチャーを放っていたあたりさすが彼の妹と実感せざるを得ない。 「あなたたちって本当にしぶとい」 「聞いたよ、つい最近な」 「それ今言い返してもいい?」  どうぞ、と促すとふたりが揃って口を開く。大方の予想はついていたが案の定、お互いさま、と兄妹の声が重なった。 ***  彼の部下が車を回してくれるというので待つことになった。クレアは待っている間に寝そうとのことでさっさとタクシーを拾って別行動を取っている。彼だけ入院だったら笑える、と去り際に言っていたがありそうで笑ってしまった。  座ったら寝そうか、とクリスが問うので座らなくても寝そうだと正直なところを告げた。敷地内の中庭にいくつかベンチがあって、ひとけのないところを選んで並んで腰掛ける。 「そういえば現場の引き継ぎってどうなったの?」 「さあ、サンフランシスコ市警とFBIが揉めてるのは見かけたが。CDCもいたな」 「聞いたことのあるアルファベット」 「仲良しだろ、疾病管理センター。あとどこか四文字のところも合流してた、NCIS?」 「ゾンビの中に海兵隊がいたならね。観光客みんな一般人って感じの騒ぎだったけど」  四文字のアルファベット募集、とクリスが匙を投げるのでだらだらとそれらしい組み合わせを出し合っていく。病院の中庭は決して広くはないが庭木も花も手入れが行き届いていて、時おり耳に届く会話はいずれも長閑でつつがなく、つられるように彼との会話も間延びしていく。  残るひとつが沿岸警備隊ではないかとなったところで、クリスがふいに噛みしめるように笑った。 「君とこういうくだらない話がしたかった」 「沿岸警備隊の人がいたら怒ると思う」 「世界を守ったんだ、許してくれるさ」 「特大のグロいクリーチャーもやっつけたしね」  流れる空気があまりに穏やかで数時間前の記憶がフィクションに思えてくる。重たい銃火器の感触も、生々しい生物兵器の気配もにおいもまざまざと思い出せるというのに。 「なんでああいう人たちって最後人間じゃなくなっちゃうのかしら」 「いい迷惑だしなにより裁けない」 「ほんとクズ野郎」 「前から思ってたんだが君口悪くなったぞ」  心当たりがない、とジルは空とぼける。クリスがなにか言いたげな視線を寄越してきたが素知らぬふりをした。 「あなたは小言が増えた」 「心当たりがないな」 「私のやり方が気に入らない?」  ふとクリスが口を閉ざして、ジルの持ち出した話を吟味するようにしてすこし苦い顔をする。現場復帰を巡って互いに思うところがあるのはわかっていた。それを口にできずにいたことも。 「……君が無茶ばかりするから心配だったんだ」 「私はあなたが心配ばかりするから不安だった」  彼は相応に歳を取ったのだろうが。それは別にいい。  問題は自分が昔と同じように戦いたくて、それが彼の目には変わったように映っていたことだ。  クリスが無茶と言うたびかつての自分を思うのだ。あの事件より前だったら彼は何と言っただろう。同じ判断をしたジルに、同じ戦い方をするジルに、果たして彼は無茶と言っただろうか。  今ならわかる。そうやって頑なになるジルはたしかにそのぶん空回っていた。彼の心配と自分の焦燥がひとつずつ噛み合わなくて、それが変わったように見えたこと、変わらなければならないと言われている気がしたこと。 「たしかに過保護の気があったのは認める」 「言い訳なし?」 「今回の戦いぶりを見て無茶するななんて誰が言える? それに君自身の問題はもう解決したんだろ」 「解決というか気づいただけ、負い目や罪悪感で戦ったってどうにもならないし私にはみんなが必要。私は変わってない、まだ戦える」 「そうだな」  クリスはけぶるように笑った。 「君が変わらずにいてくれて本当に嬉しい」  ジルはゆっくりと瞬きをする。  あの事件の間や復帰するまでの時間、互いに分かち合えぬ苦しみをそれぞれ経験している。彼が特別だと語る部下のことをジルは詳しく知らないし、罪なき人々に純然たる殺意を向けるおそろしさを彼は知らない。  互いに知らないことばかりが増えた。  いったい。彼はいつの間にこんな笑い方をするようになったのだろう。 「……まあ、強いて言うなら、あなたを庇って崖から落ちたのはたしかに無茶だった」 「本当にな、ぎりぎり笑えないから勘弁してくれるか」  一応まだ夢に見る、とクリスがうめくのでジルは笑いだした。それが冗談であることを祈るほかないが、残念ながら、おそらく事実だろう。 「あなたってそういうの引きずるタイプだったっけ」 「いろいろあったからな。君が特別なんだって口説き文句も言えるくらいにはなったが今聞きたいか?」 「眠くないときにして」 「だよな」  ジルは欠伸をする。隣でクリスがつられていた。  風がふいて草木を揺らし、さらさらと枝葉の擦れあう音が優しく耳に届く。この手で守ったはずの平穏が容赦なく眠気を煽ってくるのだから皮肉なものだ、とジルは空を仰いだ。車はまだこない。 「それにしてももう少し気の利いた台詞なかった?」 「君の墓を見るならうんと先がいい」 「最高。笑える」  皮肉を受け流したクリスが口説き文句募集、と言うので結局その気のない台詞をだらだらと出し合っていく。本音もいくつか紛れていただろうがそれを見極めるにはあまりに眠かった。  レオンに聞いたら、と冗談のつもりで言うとそれもありかと真剣に返された。たぶんない。どうせすぐにまた血みどろになって別のクズ野郎をやっつけて、さっさと帰って眠りたいと愚痴り合うのだろう。口説き文句なんてずっと先に違いなかった。
(2023/07/13)
映画見たあと気づいたら書き出してたのでリハビリも兼ねてポイピクに放り込んでた代物。 レッドフィールド兄妹とジルの距離感があまりに理想的すぎたしなにより全員ゴリラで最高でした。書きそびれてますが沿岸警備隊はUSCG。

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