うら恋う徒花(2)
送るという申し出を丁重に断って、結局探偵社の最寄りに車を停めてもらった。また連絡するという笑顔にこちらもそれ相応の笑みを返して車を見送る。時計を見ると二十三時、自分にしては長く付き合ったほうだ。
微酔の体に夜風が涼しい。連絡するといわれても特に思うところがなく、強いて挙げるなら明日乱歩に話すことを考えているくらいだった。彼はいつもどうだったと訊いてくる。他愛ない雑談の一環か暇潰しの好奇心か、いずれにせよ与謝野は現状どうもこうもないという答えしか彼に返せていない。どうせ乱歩も期待などしていないに違いないけれど。
真直ぐに帰るのもなにか味気なくて歩こうかと考える。面倒になったらそこから電車に乗ればいい。駅へ向かう人の波に逆らって緩やかに帰路を辿りだした先、見知った男がずぶ濡れになってふらふらしていた。
「おや、与謝野女医」
「うわ」
あまり夜の深い時間帯に会いたい人間ではない。加えて男と食事をした後となると控えめに言ってもものすごく面倒くさい予感しかしない。
「本日のお相手はどうでしたか」
「アンタにデリカシーって物はないのかい」
「残念ながら。ああ、まあ今この状況で答えは明白ですけどね、自宅までは送らせなかった」
「気が進まなかったンだよ」
「でもセックスはしたんでしょう?」
いよいよもってデリカシーに欠けた言葉が飛び出したので与謝野は黙って太宰の頭を張った。セクハラ、と撥ね付ける。すみませんと太宰はへらへら笑っている。
「哀れな殿方の代役と云っては何ですが次の駅までお送りしますよ、時間も時間ですし電車に乗ってください」
「アンタ妾の話をつつきたいだけだろ」
「いやあ」
否定をしろ。与謝野はうんざりしながら、それでも多少は気が紛れるかと捨て鉢になって歩きだす。
この男の質の悪いところはおおむねの事態を見通した上で黙っていることだ。この期に及んで心中に誘わぬあたり乱歩との関係まで見透かされているようでぞっとしない。
「女医ってそういうことには潔癖なほうだと思っていました」
「アンタだって好き放題女漁ってるんだろ」
「私と女医とでは話が違うような」
「ああほら、そういうところだ」
窮屈なものでね、と与謝野は肩を竦める。医者という肩書きのせいか。命という敬虔なものに触れる力のせいか。あるいは女というただそれだけのためか。太宰が先に口にした潔癖という言葉を舌に転がして、その不味さに与謝野はげんなりする。
「アンタらはアンタらで好き勝手に言い寄るだろう、此方だって好きにしてもいいはずだ」
「不健全ですねえ。乱歩さんを見習ったらどうです」
「乱歩さん?」
なぜここで彼の名が。流石にひやりとしたが危惧していた話の流れからは多少逸れる。この男の深意など考えるだけ無駄で、それならきっと意味などないのだろうと与謝野は勘繰ることをやめた。
「乱歩さんってああ見えて案外一途なんですね、意外でした」
「アンタがそんなことを知っているほうがよっぽど意外だ」
「見ていればわかりますよ、お相手ご存じです?」
しらないよと気軽に応じて、そうなんですかと意外そうな声が可笑しかった。そういえば尋ねたこともなかったな、と今さらになって好奇心が湧き出る。唯我独尊を地でいくあの名探偵の心を揺さぶる相手とは一体。
「まあ私は知ってますけど」
そこへこの男の一言である。は、と与謝野は反射的に太宰を見上げた。彼はにやにやと笑いながら与謝野の視線を受け止めている。この男の悪趣味ぶりには実に頭が下がる。
「アンタの知ってる人かい」
「気になりますか」
「そりゃねェ」
というか身内かどうかを知っておきたい。現状彼との関係を思うと極力穏便に済ませたい与謝野である。
「私は知っていますが女医は知らないかと」
「何かそれも癪だね」
「ふふ」
身内でないなら掘り下げるだけ野暮だ。機会があれば本人に訊いてみよう、と明日のことを考える。彼はどうこたえるだろう、さらりと打ち明けてくれる気もするし教えないとばっさり切られる気もする。まったく読めぬ男だと与謝野は知らず破顔した。
駅が見えてきた。隣で太宰がくしゃみをするので風邪をひくんじゃないよと釘を刺す。
「女医も、くれぐれも刺されないように」
「アンタに云われたくないよ」
違いないと笑う太宰に一応送ってもらった礼を告げて、お気をつけてという太宰に手を振って改札へ向かう。乱歩の相手について今まで気にもしなかったのはなぜだろう、と今さらのように考えて、与謝野は彼の瞳の先を思う。
***
結局乱歩はヒントのひとつも教えてくれやしなかった。
「どうせ聞いたところで君もわからないと思うよ」
挙げ句の果てに太宰と同じようなことを言う。与謝野がつまらないと口を曲げると乱歩は笑って、叶ったら教えてあげると適当な台詞でいなした。肌を辿る彼の手がくすぐったい。こそばゆいと笑っているうちにまんまと煙に巻かれる。
「大体なんで今さら? 今まで訊いてこなかったじゃない」
「太宰に云われて気になってね。というか、奴が知っているのに妾は知らないなんで癪じゃないか」
「やきもちに聞こえて気分いいね、それ」
「アンタも悪趣味だねェ」
首元で乱歩が笑った。君ほどじゃない、と難癖をつけるので彼の髪をついと引っ張って、そのまま首をくすぐる髪に指を差し入れる。
「見込みはあるのかい」
「云っちゃあ面白くないだろう」
「ふふ」
「面白い?」
顔を上げた彼の双眸こそじんわり愉楽を孕んでいて、そういうところが悪趣味なのだと与謝野は可笑しい。核心に触れるようで触れぬ問答が互いの距離をも有耶無耶にしてゆく。彼の思いが報われた時こそがこの関係の終わりだというのに。
「応援するのも何だか惜しいね」
「すきにしたらいいよ。それで昨日は?」
どうだった、肌を辿る舌の感触に身を震わせながら、与謝野はどうもしないよといつも通りのこたえを口にする。すでに昨日の男と何を話したのかも覚えていない。
「乱歩さんのことを考えてた」
「それは光栄だね、妬いてほしい?」
「太宰にかい?」
「一駅送った程度じゃまだまだ」
手厳しいと笑って胸元に顔をうずめる彼を抱きとめる。戯れ合って都合のいい熱に浸って、この関係はいつまで持つだろうと与謝野は思いを馳せた。彼が向ける眼差しの先、これまで気にも留めていなかった存在が輪郭を持って中途半端な距離に現実味をもたらす。彼との時間を思っていたよりも気に入っていたことに気が付いて、けれどそれを口にしないほうが賢明であることも与謝野は知っていた。
(2018/08/29)